2009-01-01から1年間の記事一覧

道徳の実在性

実在論の基準は二つあるといってよいだろう: 命題の真偽に認識超越的に決まる - つまり、「〜が正しいと考える(思う/認識する/感じる)」ということと、「〜が正しい」ということが異なる 認識超越的な存在者がある - つまり、「〜が存在すると考える」と…

嘘をつくことは道徳的に悪いことか?

初期仏教典は、嘘をつくことを強く戒めている。ただ、その根拠は示されていないか、示されているとすれば「めぐりめぐって自分の身を滅ぼす」というのが中心のように思える。もし後者であるとすれば、それは、利己的な、そして、ときには説得力に欠ける根拠…

ドゥウォーキン『法の帝国』

読み直した。ほとんどの部分を誤解していたというわけではないと思うが、僕がドゥウォーキンに賛成できないように感じていたほとんど部分を、彼は先回りして論駁を加えていた。 さて、ドゥウォーキンのいう原理と政策の違いが分かりにくい(『権利論』などを…

直接実在論(追記)

例えば、ある人が財布をベッドの下に落として、箒の柄でその財布を突いてベッドの反対側に弾き飛ばすとする。ここで、「その人が動かしているのは『ほんとうは』箒の柄なのであって、財布ではない」とか、「いや、『ほんとうに』財布を動かしているのだ」と…

直接実在論

直接実在論(ないしは、「自然な実在論」)というが、どちらかといえば、存在論というよりも認識論の一説。僕なりに定式化すると、「あらゆる種類の感覚に対して『認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する』領域があるなどという…

主観的・客観的

「主観的」と「客観的」という言葉は、多義的すぎて使いにくい。とりあえず、思いつく限り: 「心理的」と「非心理的」*1 「属人的」と「非属人的」*2 「真理値が定まらない(あるいは規約の問題)」と「真理値が定まる」 「意見が収束しない」と「意見が収…

宗教について評価している面

何かやたらと宗教を叩いているかのような、というか、実際に叩いている文章が続いたので、僕が宗教を肯定的に評価している面もある、ということも書こうと思う。ただし、僕は「宗教」という枠組みそのもの、全てあるいはほとんど全ての宗教に共通しているも…

動物愛護と優生学

ナチスの動物愛護政策には、たまに注目があつまる。すでにこういう分析があったように思うが、ナチスの「博愛的な」動物愛護政策と「残虐な」優生学的なホロコースト正当化は、べつに矛盾するものではなく、ある見方からは*1、どちらかといえば一貫したもの…

グールド『神と科学は共存できるか?』*1についての覚書

グールドが、結局、NOMAが広く受け入れられている見解だとしているのかどうか、よく分からない。グールドの言っていることは、「科学・宗教それぞれの指導的な立場の人々に広く受け入れられている見解」ということだと思うが(これ自体も疑問だが*1)、それ…

「科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか」の一部再論

道徳的判断(あるいは道徳的推論、道徳的議論)をいうものが、弱い意味でよいから「合理的」なんだとしましょう。例えば、Aさんは「基本的には、嘘をつくよりは、つかないほうが良い」という道徳観を持っていて、それなのに、誰の利害にも関わらない場面で、…

道徳の外在主義

安藤馨『統治と公理』*1を読み直す(いま途中)。読み返しての最大の疑問点は、道徳の外在主義的実在論なんて、説得力があるのだろうか、というものだ。 内在主義の実在論者は、道徳的信念と行為との間に何らかの内的連関が存在するという考え−すなわち、道…

「認知的価値」について・道徳についての合理的議論の可能性について

米国の哲学者ヒラリー・パトナムは、道徳的な議論の合理性についての擁護の文脈で、科学における「認知的価値」について論じる: 古典的プラグマティストであるパース、ジェームズ、デューイ、ミードはすべて、価値と規範性は経験のすべてに浸透していると主…

「大晦日には十円玉は電気を通さない」

「十円玉」は自然科学に完全に還元できる言葉ではないが、「大晦日には十円玉は電気を通さない」という主張が事実であることは、自然科学の知見からみてかなりありそうにない。それとも、「『十円玉』という用語は、法的な意味、経済的な意味、社会学的な意…

抽象化

パトナム『心・身体・世界』を読み返した*1。「唯物論的デカルト主義」をとると、心を物理学にをどう還元するのか分からなくなる。パトナムの記述から離れるが、ここで問題となっている還元とは、次のようなものだ: 私たちが「心」について日常的に考え、表…

科学と宗教

一連の「疑似科学批判・批判」の後始末としても、科学と宗教の関係について、なぜ僕が科学的知見でもって宗教を批判して良いということにこだわるのか、ひとつ書き残していることがある。しかし、これを書こうとすると、どうしても攻撃的、独断的、大雑把に…

正義と善・法と道徳・道徳実在論

気づいてみれば当然のことだが、僕が道徳実在論に固執する理由は、僕が現代リベラリズムの基本的な方針である正義と善の分離、ドゥウォーキンのような法と道徳の分離などに懐疑的であることとつながっている。正義と善の分離、または法と道徳の分離を、何か…

道徳の実在論と自由抑圧

道徳の実在論は、必ずしも全体主義や自由抑圧的な政治体制・政策に結びつくわけではない。単純に、人間の自律、市民の自由といった道徳的価値を認めればそれでよいのだ。実際のところ、道徳実在論者で、全体主義や自由抑圧的な政治体制・政策を強く支持して…

自然の斉一性と真理の対応説

自然の斉一性という考えは、真理の対応説を内包しているように思う。仮に、真理を「実証された理論」あるいは「実証的な研究の極限において到達する理論」によって定義するとする。そうすると、宇宙の地平面より向こうの事象については、真も偽もなく、それ…

アンドロイドの選挙権

原形質から作られたアンドロイド(それにはこれからまさに取り付けられようとしている言語中枢を除くすべてのものが備えられている)が赤とはどのようなものであるかを知っているかどうか、われわれにはまったくわからないということは、主観性の本性をめぐ…

デカルト的懐疑

以前のエントリで「価値と事実の領域分割」という言葉を使ったが*1、パトナムの「自然な実在論」やサールの直接実在論の立場、ローティの「自然の鏡」への批判は、いうなれば、主観と客観の領域分割への批判ということができるかもしれない。いま自分は赤の…

「社会の道徳慣習を改善していく」プロジェクト

私は、道徳の領域において大事なことは、「社会の道徳慣習を改善していく」という大きなプロジェクトにコミットしていくことではないかと考えています*1。しかし、科学の領域と道徳の領域をはっきりと分けておこうとする動きが強すぎると、そのプロジェクト…

私はどういうふうに科学主義者ではないか

パトナム『事実/価値二分法の崩壊』*1を読み直していると、面白い記述があったので、引用します: 論理実証主義の事実/価値二分法が、「事実」とは何であるかについての偏狭な科学主義的図式に基いて擁護されたのは、この二分法のヒューム的な原型が「観念」…

私はどういうふうに科学主義者か

私は、道徳の議論についても、「その前提は、科学的知見に反する」とか、「科学的知見によれば〜で、それを道徳的に評価すれば〜で…」ということを言っても良いし、宗教的な道徳論については「それが科学とは別の領域のものだから」と保護されるべきではなく…

科学と道徳について

僕は、道徳的判断と道徳慣習は、自然のあり方の認識と密接不可分だと思っている。それをもし「科学の領分を侵犯している」というのであれば、現実に、侵犯している。そして、それで良いと、僕は思っている*1。逆に、自然のあり方の認識を含んでいない道徳と…

科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか

はじめに 端的に言って、私は「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」というような考え方に否定的で、これに固執するべきではないと考えています。「疑似科学批判・批判」の一連のエントリについて、田部勝也さんからいただいた批判の一部は、この考え…

真理について

さっき、ふと、デイヴィドソンの真理観の一面が理解できたような気がする。そして、その真理観は説得力があるように思う。たしかに、僕は、僕自身の信念体系の外側に出ることができないから、僕の信念と事実との一致を確認することはできない。このデカルト…

疑似科学批判・批判について

「擬似科学批判」への一連のエントリが、ニセ科学批判に対する非難を、十分な配慮なく書いたものであったことを、ニセ科学批判をされている方々に、お詫びいたします。 「セクショナリズム」という言葉(再) レッテルの帰属を争っているとしてそれを「セク…

疑似科学批判・批判について

まず、「擬似科学批判」への一連のエントリが、疑似科学批判ないしはニセ科学批判に対する非難を、十分な配慮なく書いたものであったことをお詫びいたします。まことに、申し訳ありませんでした。なお、撤回の意思を明確にすることを重視して、エントリに打…

疑似科学批判・批判の補足(たぶん最後)

次に、すでに書いた点を、もう一度繰り返します。「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」という立場がありえないという意見が、圧倒的多数であることには、いまだに…

疑似科学批判・批判の一部撤回と謝罪

まず、二つ撤回し、それらを含めて三つお詫びします。一つ目。レッテルの帰属を争っているという主張は撤回しませんが、それを「セクショナリズム」と評した、その「セクショナリズム」という表現は撤回します。正直、もちろん揶揄ですから否定的なニュアン…