直接実在論

直接実在論(ないしは、「自然な実在論」)というが、どちらかといえば、存在論というよりも認識論の一説。

僕なりに定式化すると、「あらゆる種類の感覚に対して『認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する』領域があるなどという保証はないので、そんな領域を哲学的に特定するというプロジェクトは見込みうすであり、そういうプロジェクトが成功するという前提に立った哲学理論は採用するにあたらない」という主張だといえるかもしれない。


とはいえ、このままだとさっぱり分からないので、センスデータ説の批判からはじめよう。

センスデータ説とは、人が黄色い紙を見ているとき、直接に意識に与えられているのは物理的な対象であるその紙ではなく、自分の精神の中の黄色いセンスデータなのである、という立場だ。なぜならば−と、センスデータ説は続ける−、人は物理的には身の回りに黄色いものなど何もないのに夢の中で黄色い紙を見るときがあり、このときに見られているところの黄色いものは物理的なものではありえない。したがって−とさらに続ける−、意識によって『ほんとうに』見られているのは物理的な対象なのではなく、センスデータなのである。

後半の夢の問題についての議論は、しばらく置いておく。単純に、実際に黄色い紙を見ている事例から始めよう。直接実在論の回答は、こうだ: 人が黄色い紙を見ているとき、その人は直接に物理的な対象であるその黄色い紙を見ているのである


直接実在論は、まず、センスデータ説をこう切り崩す: 照明の光が黄色い紙にあたり、特定の波長が混合された光が反射され、それが水晶体で屈折し、網膜に映り、視神経を刺激し、脳のいろいろな部位で興奮を引き起こしながら、最終的に大脳のどこか?(意識中枢?)で興奮を引き起こして、−ここはセンスデータ説に譲歩して−センスデータがその人の意識に与えられる。このように表現された長大な因果関係において、最後のものだけが直接に見ているものだとかいうことに意味があるのか? この長大な因果関係において、どこかで「ここからは意識の外部」「ここからは意識の内部」などと線を引くことに意味があるのか? そんな線はどう引いても恣意的ではないか? どう引いて恣意的であるように思われる。だから、意識の外部と内部との境界線など(形而上学的に特別な何かとしては)なく、直接に見ているのはセンスデータだけなのだ、という議論に意味はない。

センスデータ説は、「いや、意識の内部と外部、その境界面たるセンスデータの領域を問題にすることには価値がある。なぜなら、それはその長大な因果関係における、最後のステップだからだ」と、切り返すことはできるかもしれない。直接実在論は、こう反駁する: 最後のステップだからといって、どう特別なのだ? というか、「最後のステップ」というのをどう分割して切り出すのか自体、恣意的ではないか*1? そもそも、それが「最後のステップ」だとどうして分かるのか? センスデータというものがあるとして、それが「最後のステップ」だと保証する基準は何か?


ここで、センスデータ説は、このエントリの最初にあげたような言い回しを持ち出してくる。「『認識における有無の判定と存在における有無の判定が必然的に一致する』という基準である。ある人が痛みを感じるとき、それがその痛みがあるということである。その痛みが存在するのにその人が痛みを感じていないというのは理解不可能だし、その人が痛みを感じているのにその痛みが存在しないというのも理解不可能だ。したがって、前述の基準によって、この痛みはセンスデータである」と。

直接実在論は、その基準をさらに洗練するように求める: 有無だけが問題ならば、人が黄色いものを見ているときにも、痛みは存在するのか? 痛みを感じているときにも、黄色のセンスデータが存在するのか? あなたが言っていることは、有無の判定の問題ではなく、同一性判定における一致ではないのか、と。

センスデータ説は、この指摘を認めざるを得ないだろう。したがって、次のように言い直す: 「『認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する』という基準が、センスデータか否かを決める」と。


舞台が整った。しかし、舞台が整ったところ悪いのだが、早速、直接実在論はセンスデータ説の痛みについての議論をスルーする。(僕の理解が正しいのかよく分からないが)たぶん、直接実在論は「痛みについては、あなたがおっしゃるとおりでしょう。それは認めます」とさえ言ってもよいかもしれない。何事も、対論者にも一分の理があったりするものだ*2

しかし−と、直接実在論は続ける−、痛覚ではなく、視覚についてはどうか? ミュラー・リヤー錯視の図を見るとき、人は同じ長さの直線のセンスデータを二つ見ているのか? それとも、異なる長さの二つの直線のセンスデータを見ているのか?

また、白から赤まで少しずつ色が違う百枚のカードC1〜C100が並んでいて、隣り合う二つのカードの色の違いは見分けられないのに、両端のカードの色が見分けられるとする。では、センスデータにおいては「認識における有無の判定と存在における有無の判定が必然的に一致する」とすると、C1とC2は見分けられないのだからC1のセンスデータはC2と共通し、C2とC3は見分けられないのだからそのC2のセンスデータはC3とも共通し、C3のセンスデータはC4と共通し、C4のセンスデータはC5と、C5のセンスデータは… となって、結局、C1のセンスデータとC100のセンスデータは共通することになる。しかし、C1とC100は見分けられるのである。したがって、これは、「認識における有無の判定と存在における有無の判定が必然的に一致する」という基準が機能しないことを示している。

もっとも、センスデータ説は、このような反論に対して、いろいろと答えられるかもしれない。ミュラー・リヤー錯視はこう、百枚のカードの場合はこう、と。しかし、こうなるとセンスデータ説は、「ほんとうの」センスデータを探求し、それについての議論を組み立てなくてはならない。そして、センスデータ説がこういった理論体系を必要とするということ自体が奇妙なのだ。直接実在論はいくらか冷笑を込めてこういうことができる、「おやおや、センスデータとは、意識に直接与えられているものではなかったのですか?


センスデータ説は、議論を仕切りなおそうとするかもしれない。とくに、「認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する」という基準を捨てることによって。しかし、これは、直接実在論の「意識の外部と内部との境界線など恣意的にしか引けないのではないか?」という疑問に答えるために必要だったものだ。したがって、この基準を捨ててしまうと、(たぶん)センスデータ説は倒壊する。

また、センスデータ説は次のように反駁しようとするかもしれない: 「痛みの問題はどうなのだ。これは、『認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する』ではないか」と。しかし、これについては、センスデータ説の言い分を認めると先に書いた。べつだん、そういった感覚が一つ二つある、考えようによっては無限にあることは、構いはしない。直接実在論が問題にしているのは、センスデータ説がそのモデルを、あらゆる感覚について適用しようとすることだから。


さらに、センスデータ説は次のように反駁しようとするかもしれない: 「夢の問題はどうなのだ? 直接実在論は、これをどう説明するのだ。人は物理的には身の回りに黄色いものなど何もないのに夢の中で黄色い紙を見るときがあり、このときに見られているところの黄色いものは物理的なものではありえない。この人はいったい何を見ているのだ?」 僕は、夢の問題を何の説明もなくスルーしていたので、これについて解答する必要がある。

直接実在論によれば、この人は、何も見ていないのだ。ただ、たんに、その人は自分は黄色いものを見ていると思っているだけなのだ。話はそれでおしまいであり、これ以上なにも言うことはない(哲学的・認識論的・形而上学的には)。

これは、センスデータ説にとっては、噴飯ものの回答だろう。問題をそらしているように思えるかもしれない。あるいは、たんに、「見える」とか「思う」とかいう言葉の使いかたを変えただけのように思えるかもしれない。現時点での僕個人の意見としては、「言葉の使いかたを変えただけ」という理解でも構わないと思う。要は、センスデータ説が見込みのないプロジェクトだということが重要であって、そのセンスデータ説の言葉遣いなんてこだわる必要がない、といえればよいからだ。しかし、もう少し、しっかりした議論をすることもできる。

つまり、センスデータ説がこだわるのは、身の回りに黄色いものなど何もないのに夢の中で黄色い紙を見るとき、あるいは見てるように思えるときと、実際に物理的な対象として黄色い紙を見ているときに共通しているものは何かのか? ということだ。これに対する直接実在論の答えは、「黄色いものを見ているように思える」ということが共通している、ということになるだろう。センスデータ説はこれだけでは納得しないだろう。もしかしたら、どちらも同じように「黄色いもの」を見ているようにたしかに思えるではないか、とセンスデータ説は反駁するかもしれない。ここまでは、一見、完全な平行線であり、言葉の使いかたの問題に過ぎないように思える。

しかし、直接実在論には、次の一手がある。センスデータ説がこだわっているのは、「黄色いものを見ているように思える」ということが共通していれば、なにか共通する対象が存在するはずだということである。それは、つまり、「認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する」という基準を満たす何かだ。そして、これこそ、すでに論駁した基準である


結局、センスデータ説のまずいところは、それが当初目指していた自明性を担保するような何かを得ることができなかったということだろう。センスデータ説のような「心」の中に自明な何かを求めるような議論が、やたら複雑な理論を必要とするようになると、どうしても胡散臭くなる。大げさにいえば、自明な何かがあると言っているのだから、たった一つの論駁に言葉が詰まってしまうと、それでもうお終いなのだ。


直接実在論を、「あらゆる種類の感覚に対して『認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する』領域があるなどという保証はないので、そんな領域を哲学的に特定するというプロジェクトは見込みうすであり、そういうプロジェクトが成功するという前提に立った哲学理論は採用するにあたらない」とはじめに定式化したが、これは以上のような意味だ。

さて、この議論は、なかなか重大な帰結を含んでいる。一つは非常に常識的なもので(そのために直接実在論は、「素朴実在論」とか「自然な実在論」とか呼ばれる)、一つはなかなかに非常識なものだ(少なくとも近代哲学の枠組みに親しんだ人にとっては):

  1. 常識的な帰結: 僕たちが黄色い紙を見ているとき、その見ている対象は黄色い紙だ。この紙は、認識の対象として実在する。
  2. 非常識な帰結: いわゆる「意識」など存在しない。もちろん、これは、レトリックとしてわざと刺激的に書いている。ここで問題としたいのは、意識する主体と意識される対象、意識の内側と外側という明瞭な境界線が、哲学的に、あるいはあらゆる非哲学的な考察に先行する前提としてあるわけではない、ということだ*3。痛みについてセンスデータ説の言い分を認めたし、視覚についても、心理学や生理学で「意識」という言葉を有益に取り扱えるだろうし、日常用語についてでさえもセンスデータ説の言い回しを認めても良いと思う。しかし、それは偶然にもその場合は役に立つということであって、あらゆる場合に役に立つわけではない。

*1:なぜ、視神経から先を「最後のステップ」だといってはいけない? それは、水晶体から先を「最後のステップ」だというのとどう違う?

*2:後で書く内容を先取りすることになるが、「右足に痛みを感じている人の認知対象は、まさにその物理的な右足である」「右足の幻肢痛を感じている人は、ほんとうは右足に痛みを感じているのではなく、右足に痛みを感じていると思っているだけなのだ」ということは言えても、「右足の幻肢痛を感じている人は、ほんとうはなんら痛みを感じていないのだ。たんに痛みを感じていると思っているだけなのだ」というのは、いくらなんでも無理があると思う。

*3:さっき気づいたが、なにやら仏教的だなぁ。