真理について

さっき、ふと、デイヴィドソンの真理観の一面が理解できたような気がする。そして、その真理観は説得力があるように思う。

たしかに、僕は、僕自身の信念体系の外側に出ることができないから、僕の信念と事実との一致を確認することはできない。このデカルト的な局面では、真理の対応説はとれない。とりあえず、真理の整合説も棄却して、だから真理という概念にはなんら価値がない、といっておこう。

しかし、僕の信念と事実を比較している人にとっては、僕の信念が事実と一致しているかどうかは意味がある。箱を持ってきて、「この中に何が入っていると思う?」と質問する人を想像すればよい。その人は、僕の信念体系の外側から、僕の回答が事実と一致しているかを確認することができる。この局面では、真理という概念には価値がある。この局面では、真理の対応説が説得力がある。この説得力に比べれば、デカルト的な局面での葛藤をもとに無理に真理の整合説をとるなんて、滑稽だ。

えらく乱暴に言えば、デイヴィドソンは、真理という概念のいわば本籍地は、後者の局面だと考えているんだろう。そのことに、いま、僕も同意する。

しかし、それは真理の合意説に至るのではないか? 例えば、さっきの箱のなかにリンゴが入っていて、僕と相手が「なるほど、リンゴだ」と同意する、それが真理だということではないのか? デイヴィドソンは、この点について、その合意には両者にたいして因果関係を及ぼしているリンゴが必要である、という点を指摘するだろう。でも、これは、リンゴの客観的実在を前提にしている限り、話がかみ合わないように思う。むしろ、こう考えたほうが簡単なように思う。デカルト的懐疑に足をすくわれなければ、真理の対応説で納得できるものを、わざわざ別の説明をする必要はない。

でも、デイヴィドソンは自分は真理の対応説をとらない、といったことを書いていたような気がするな。また、読み直しか…orz