疑似科学批判・批判について

擬似科学批判」への一連のエントリが、ニセ科学批判に対する非難を、十分な配慮なく書いたものであったことを、ニセ科学批判をされている方々に、お詫びいたします。

セクショナリズム」という言葉(再)

レッテルの帰属を争っているとしてそれを「セクショナリズム」と評したのは、それがその争いは正当性のないものだとか、間違ったものだとかというまでの判断を込めたつもりはなかったのですが、そういった判断を読み取る人が多いということは、結果的にそこまでの判断・評価を込めたことになり、私の言葉の表現が間違っていたのだと思います。

「穏健な伝統宗教や道徳や芸術などの科学以外の文化領域へのリップサービスのためにか」(再)

実際には、穏健な伝統宗教や道徳や芸術などの科学以外の文化領域へのリップサービスのためにか、端的に「事実」「事実の科学的な真偽」といった問題提起の仕方をせず、ひたすら「科学」という名称の使い方にこだわっています。

この中の「穏健な伝統宗教や道徳や芸術などの科学以外の文化領域へのリップサービスのためにか」の部分は、私の誤解でした。

「志が高い」「志が低い」(再)

「志が高い」「志が低い」というのは、論理実証主義者と比較したものですが、この比較が極端で一方的なものであり、その表現が過度に嘲笑的でした。

ニセ科学批判」についての誤解

私がいう「疑似科学批判」と皆さんのいう「ニセ科学批判」に齟齬があるといく人かの方が指摘し、私がそれを理解しないことは(私は同一であると考えていました)「ニセ科学批判」への誤解であると指摘されている点について。

この誤解とは、つまり、「ニセ科学批判」が立脚しているのは、批判されている「見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの」が科学的手法、科学的方法によって実証されていないという点であって、その点を攻撃するのが「ニセ科学批判」のいわば原則なのだ、ということに関してなのだと思います。

私は、一連のエントリでは、その「ニセ科学批判」の原則をほぼ無視していました。なぜ、私がそうしたのかは、ひとつには、宗教や道徳が科学の提供する知見に矛盾すること、あるいは科学的知見からみればほぼありそうにないことを主張して、社会に被害をあたえている場合にも批判して欲しいという感情が先にあったから、ということになると思います。

また、私がその「ニセ科学批判」の原則、つまり「ニセ科学批判」が科学的手法・科学的方法によって実証されていないという点を非難するという方法論を、それほど真剣に受けとてなかったという面もあります。というのは、「ニセ科学批判」も、対象としている主張の実証の不備だけではなく、しばしば既存の科学的知見を引き合いに出してそれと齟齬しているということを主張したり、既存の科学的知見からみてありそうにないという議論をする場合もあるからです。

この点について、私の誤解があったと思います。つまり、私は、(1)既存の科学的知見に矛盾するという批判と(2)科学的方法論に反するという批判を意識的にも無意識的にも区別しており、「ニセ科学批判」は(1)(2)も行っていると考えており、(2)が「ニセ科学批判」の出発点であるとしても、それに留まっておらず、その原則に対するこだわりはそれほど強いものではないのだ、というように考えていました(実際のところ、この見方は、ニセ科学批判の主張者と共通しているのかもしれません)。

しかし、「ニセ科学批判」をされる方々はその原則にこだわりを持っていて、それこそが「ニセ科学批判」なのだと意識されているのが、事実なのだと思います。また、そのこだわりが、たんに心情的な独断ではなく、理由があることも理解しました。その理由とは、ひとつには既存の知見に反して新奇な仮説を検証しようとする科学を排除してはならないからというものであり、もうひとつには科学以外の文化領域に不当に干渉してはならないから、ということだろうと思います。

正直なところ、(1)(2)を区別するのは少なくとも私を含めた科学者ではない人々にとってはそれなりに自然な区別だと思いますが、(1)にみえるものも行っているということは「ニセ科学批判」の原則に反しているように思え、その点について「ニセ科学批判」の方々がどう考えているのかは、よく分かりません。

もしかしたら、区別して考えること自体や、(1)も行っているという認識自体が、私の根本的な誤解なのかもしれません。

しかし、おそらく、いちおう(クリアカットではないにしろ)区別できることを前提として、科学的手法において実証された対抗理論を持ち出すことは両者の実証の有無・程度を比較しているのであり、また有力な対抗理論を顧慮しないということ自体が方法論的な欠陥であるから、(2)を中心に(1)を組み入れいる、あるいは(2)を逸脱しない程度で既存の知見・実験結果に言及するのは「ニセ科学批判」の範疇であるが、たんに(1)だけに依拠するようになれば、もはや「ニセ科学批判」ではない、ということなのだろうと思います。

この点について、「〜を、〜と誤解していた」と簡潔な言葉にするのは難しいのですが、ともかく「ニセ科学批判」は科学的方法の欠落を非難するものだという原則を私が真剣に受け止めていなかったことにより、「ニセ科学批判」に対して私がもつイメージがおかしなものになっていたことはたしかであり、それは「ニセ科学批判」を誤解していたといえます。

道徳や宗教への影響について(1)

私は、(明示的に主張したのは)おもにトラックバックをいただいたコメント欄においてですが、科学の知見が宗教や道徳に影響をあたえてきたことを強調しました。これは「宗教」や「道徳」の語の意味をどうとるかで少し微妙にはなりますが、少なくともそれを不自然ではない程度に十分に広く取れば、これはこれで事実です。

また、さらに、賛同される方はいらっしゃらないかもしれませんが、「ニセ科学批判」もそのような影響を与えうるとういうことも、骨相学などについて考えてみれば、与えうると私は考えています。

しかし、「ニセ科学批判」もそのような影響を与えうるのだとしても、私がこれを「科学は影響を与えてきたのだ」と強調して主張することは、疑似科学批判・ニセ科学批判による影響の問題と、科学による影響の問題を混同していたことになります。

もっとも、「ニセ科学批判」は科学的方法の欠落を非難するものだという原則を真剣に受け止めず、「ニセ科学批判」は既存の科学的知見に矛盾するという批判も行っているとすれば、その「ニセ科学批判」の影響と科学の知見が道徳・宗教にあたえた影響を同列に扱うことはそれほど不合理ではないかもしれません。しかし、その原則を真剣に受け止めれば、それらは決して混同してはならないものだということになります。

道徳や宗教への影響について(2)

私は、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒する」立場も、極端ではあるものの、科学と道徳・宗教の関係について真摯に考えた結果としてありえるだろうと思います。


これについて、少し長くなりますが、説明します。

次のような議論、つまり、(a)道徳についての議論−あるいはいっけん道徳についての議論と見えるもの−も合理的であるべきだ、(b)道徳についての議論が対立しているときは、価値評価が異なるか、事実認識が異なるかのどちらかである、(c)価値評価が異なる場合に合理的な議論はありえない、(d)道徳についての議論を合理的なものにするために、その道徳的判断に関わる事実認識に議論を集中するべきだ、(d')事実について議論し、その後はおのおのの感情に従うべきだ、(e)その際には端的に「私は〜が好きだ」と率直に表明すべきである、(e')抽象的な「自由」「自律」「平等」「人道」といった言葉を使うことは、それに何かまっとうな意味や議論があるような見かけを作り出して有害である、(f)とくに宗教の「神」などといった定義しようもなければ議論しようもない言葉を道徳に関わる議論に持ち込むことは有害であるという立場は、道徳についての議論−あるいはいっけん道徳についての議論と見えるもの−がどうあるべきかと誠実に考えた上での立場として、十分にありえると思います。

そして、そのような立場の方が、それを「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような」という行動で表現することは、たしかに奇矯なことですが、真摯さや誠実さに反しているとまでは思えません。とくに、道徳について切実に考えて(a)に強くコミットすればするほど、葛藤に陥りながらも、「自由」「自律」「平等」「人道」「神」といった言葉に強く反発して罵倒に至ってしまうという人は、私にはありえると考えられますし、それはまさに(a)について誠実であったからなのだと思います。

私自身も、道徳について考えれば考えるほど(a)が非常に切実な問題だと考えられ、それにコミットしています。したがって、私には、この仮定上の立場の切実さが理解できます。しかし、私は価値評価と事実認識と泰然と区別することはできないと考えるので(b)には賛同せず、(c)(d)(d')(e)(e')は区別できるという前提を否定するので少なくともそのままでは意味をなさなくなります。そのため、この立場を支持しません。

以上が私の立場であり、「臆面もなく…宗教や道徳を罵倒する」立場の評価です。これに変化はありません。


ほぼ繰り返しになりますが、「ニセ科学批判」を行う方々が科学と道徳・宗教の関係について真摯に考えればそれしかありえない、少なくとも干渉を積極的に行うべきだとか、罵倒するとかはありえないというお考えならば、前述のようにそうではないというのが私の意見です。

しかし、それが皆さんが科学と道徳・宗教の関係について誠実に考えた結論なのですから、それについて私が違う意見を述べるならば、仮定上の立場を持ち出すのではなく、私自身の立場をはっきりと主張するべきでした。

謝罪

以上の各点について、お詫び申し上げます。

とくに最後の点については、私の意見がどう異なるものにせよ、否定的な表現をちりばめた揶揄を行うのではなく、私も真剣に主張するべきでした。この点を、とくに深くお詫び申し上げます。
まことに、申し訳ありませんでした。

修正記録

斜体部追記。