デカルト的懐疑

以前のエントリで「価値と事実の領域分割」という言葉を使ったが*1、パトナムの「自然な実在論」やサールの直接実在論の立場、ローティの「自然の鏡」への批判は、いうなれば、主観と客観の領域分割への批判ということができるかもしれない。いま自分は赤のクオリアを感じているといった「主観的な知識/信念」と、湯のみやライターのような事物についての「客観的な知識/信念」との区別が、デカルト的懐疑へと私たちを導く*2

「主観的」「客観的」という区別がどう困るかといえば、それがデカルト的懐疑へと導くからだといってしまって良いと思うが、逆にいえばデカルト的懐疑があるから「主観的」「客観的」という区別が深刻で、哲学的に重要なものに思えてくるのではないだろう。つまり、デカルト的懐疑を論駁してしまえば、同時に、「主観的」「客観的」という区別が認識論上の最重要課題だというパッションも失われてしまうように思う。

さて、デカルト的懐疑を論駁?する。便宜上、デカルト的懐疑を超越論的な「狭義のデカルト的懐疑」と、具体的な根拠に基いた「客観的知識の正当化の可能性」の議論に分ける。


超越論的な(狭義の)デカルト的懐疑とは、そもそも如何にして、私たちは実在に接近しうるかという問いだ。でも、考えてみれば、その「実在」なるものについて、僕たちはどんな理解も持ってはいない*3

僕たちが、悪魔に騙されていて、私たちが現実だと思っているものが、じつはすべて嘘だったら? これに対して、僕はこう答えても良い、「『悪魔』って何ですか? それはいったいどういうものなんですか?」 質問者は、こう質問を変えるかもしれない。では、もし、我々が映画『マトリック』のようにタンクの中に肉体があり、バーチャル・リアリティの世界を見ているだけだったら? 僕はこう答えるだろう、「装置を取りはずせば良いだけでは?」 質問者は、さらに質問を変えるかもしれない。では、肉体なんかなく、もともとシミュレーションの中のAIだったら?

最後の質問にはうまい切り替えしが思いつかないが、ここまで来れば、(狭義の)デカルト的懐疑の問題点は明らかだ。それは、次々と質問の具体的内容について変えられることから分かるように、僕たちが「じつは騙されている」ということが、具体的にどう「騙されている」のか、ぜんぜん特定していないのだ。逆にいえば、それが問題にしている「本当のこと」、つまり「実在」がどういうものなのかについて、さっぱり具体的な内容がない。僕たちが、「よく分からないがすごく騙されていて」、「よく分からないがとにかくすごいもの(実在)」から切り離されているという話をしているにすぎない。

あぁ、なるほど、僕たちは「よく分からないがとにかくすごいもの」から切り離されているかもしれない。しかし、それが一体、どう問題なの? 超越論的な(狭義の)デカルト的懐疑は、「よく分からないがとにかくすごいもの」を持ち出して、よく分からない話をしているに過ぎない。一言で言えば、内容がない話だ。


具体的な根拠に基いた「客観的知識の正当化の可能性」の議論は、これとはいちおう異なる。科学の教えるところでは、僕たちは、外的な事物から光や音波などを介して、さらに自分の神経網を通し、最後に(おもに?)中枢神経で認識をしているらしい。では、僕たちが直接認識できているのは、神経中枢内の現象、せいぜい自分の神経網だけなのでは? 「直接」という概念は曖昧で、どの程度の「直接」性を要求するかは文脈次第だと思うが、まぁ、ある意味においては、僕たちが直接認識できているのは「神経中枢内の現象、せいぜい自分の神経網だけ」だといっても良い。

でも、この議論は、光や音波や、神経網や神経中枢が客観的に実在していることを前提としている。したがって、ここで、「そういった客観的事物の実在がなぜ正当化されるのか?」と問うことは意味をなさない。前提されているんだもの。


そこで、いや、そうではない、その神経網が「騙されている」としたら… という話をしだすと、先の超越論的な(狭義の)デカルト的懐疑の話に戻っていく。それは、内容がない。

*1:これは僕の造語。

*2:「主観的」「客観的」という言葉は、文脈によって微妙に異なる意味、ニュアンスで使われ、ほとんど混乱しているといっても良いだろう。とくに、法学における「主観的」「客観的」という用語のいくつもの意味での使われ方は、ひどいものだと僕は思っている(でも、僕自身も、まったく混乱しないわけではない−というか、うまい言い換えが思いつかないときがある−)。例えば、「君の意見は主観的だ」というときの「主観的」というのは確実ではない、根拠がない、説得力がないというネガティブなニュアンスで使われるが、デカルト的懐疑に導かれるような文脈では「主観的知識」こそ、確実で、疑い得ないものとして扱われる。僕は、今、後者の文脈、意味合い、ニュアンスで「主観的」「客観的」という言葉を使っている。

*3:これは、パトナムの「水槽の中の脳」の議論の変奏のつもり。いちおう。