私はどういうふうに科学主義者ではないか

パトナム『事実/価値二分法の崩壊』*1を読み直していると、面白い記述があったので、引用します:

論理実証主義の事実/価値二分法が、「事実」とは何であるかについての偏狭な科学主義的図式に基いて擁護されたのは、この二分法のヒューム的な原型が「観念」と「印象」についての偏狭な経験主義心理学に基いて擁護されたのと同様です。


『事実/価値二分法の崩壊』31項

彼の主張のすべてに納得しているわけではありませんが、「事実/価値二分法」(価値判断と事実認識の領域分割)を批判するという点で、私は彼に同調していて、その意味ではむしろ、反「科学主義」者なわけです。


かなり雑駁に、擬人化して、イメージ的に書きます。

自然や社会がどのようなものかという課題は、少なくとも紀元前から道徳という領域の課題のひとつなのです。そこに近現代科学があとからやってきて、その領域を占有し、「道徳」の概念をその領域の外側に再設定しようというのであれば、それこそ、「科学中心主義」といえるのではないでしょうか。

私が、道徳と科学の間の鉄条網(価値判断と事実認識の領域分割)を批判しているのは、科学による侵攻を切望しているのではなくて、道徳のレコンキスタを応援しているがため。道徳は、その失われた国土を回復するべきなんであって、「科学中心主義」が勝手に引いた空想上の鉄条網の向こう側をあてがわれて満足しているべきではない、というパッションがあるわけです*2

*1:

事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

*2:このレコンキスタ(国土回復運動)の失われた「国土」、つまり道徳的判断の事実認識と不可分な部分は、道徳と科学… というか価値と事実についてのメタな議論の中で、「道徳は主観的だ」と規定する中で、「道徳とは何か」という議論の中で、いわば想像上失われているだけで、実際の生活においては問題なく使用しているわけですが。