道徳の外在主義

安藤馨『統治と公理』*1を読み直す(いま途中)。読み返しての最大の疑問点は、道徳の外在主義的実在論なんて、説得力があるのだろうか、というものだ。

内在主義の実在論者は、道徳的信念と行為との間に何らかの内的連関が存在するという考え−すなわち、道徳的信念は本質的に行為指導的であるという考え−を保持しているので、依然としてマッキーの「奇妙さに基く論証」に答えて、いかにして道徳的事実が客観的指図性をもちうるのかを示さなければならない。外在主義の実在論者は、道徳的信念と行為との間の内的連関という考えを捨て、道徳的信念に従って行為する十分な理由があるかどうかは未解決の問題であると認めているので、それによってマッキーの挑戦に答えることが可能である。
〔…〕
ブリンクによれば、どちらのタイプの内在主義も、「道徳的に考慮するべきことがら存在することを認めはするが、心を動かされずにいる人」〔…〕と彼が定義する無道徳主義者(amoralist)を説明することができない。そういう人は確かに存在するのだが、〔…〕理由-内在主義は、無道徳主義者の存在を認めることはできるが、「なぜ私は道徳的に要求されることがらに関心を払うべきなのか」という無道徳主義者の挑戦を矛盾したものとみなさなければならない〔…〕。


リチャード・ノーマン『道徳の哲学者たち』*2355-356項

パトナムがこの問題について「僕がそうすべきだということは分かっている。しかし、そうしたくはない。僕は悪い市民だと思うよ」というような言い回しを引き合いに出して論じている箇所があるはずで、それを引用したいのだが、発見できない。ノーマンの外在主義への応答を参照し、パトナムの道徳的議論についての全体の枠組みを意識ながら、僕なりの考えを述べる。

たしかに、一定の道徳慣習を知りながら、それに従う欲求も持たず、それになんらの行為の理由も見出さない人は想像できる。さらに、一定の道徳慣習に対してドゥウォーキンのいう構成的解釈をほどこした原理に対してさえ、やはり欲求を持たず、理由も見出さない人も想像できる。

しかし、僕たちの社会が前の世代から引き継いで維持しているのは一定の道徳慣習だけではなく(それもたしかに引き継いでいるのだが)、道徳についての議論の継続、「道徳慣習を改善する」プロジェクトである。だから、現在の道徳慣習にコミットしない人も、この議論の継続には参加することはできる。むしろ、「現在の道徳慣習には従えない」と強く主張する人がいるとすれば、その人は、ある仕方で議論の継続には参加している。

そして、道徳についての議論に参加しながら、まったく行為指導性のない道徳的主張をするとは考えがたい。ある道徳的判断についての行為指導性のあるコミットメントを引き起こせなければ、その道徳的な主張は、説得に失敗したのである。この「道徳の議論」内在的な視点では、道徳の外在主義的実在論は、「わけの分からないもの」としかいいようがないように思う。

ただし、「道徳の議論」内在的な視点からも、すべての道徳的主張が行為指導性がある、ということを受け入れる必要はない。一つには、トリヴィアルな話だが、説得力のない議論というものはありえて、だからその道徳的議論には内在的な力がないとはいってもよい。それは、失敗した議論だと判断される。また、もう一つには、見込みのある、あるいは成功した道徳的な議論においても、その議論を組み立てるすべての命題が行為指導的である必要はない。「〜〜したがって、我々はこうするべきである」という結論において、あるいは議論の全体の組み立てから、行為指導性が引き出せればよいのである。さらにまた、その行為指導性が最強のものである必要はない。私たちはあることをすべきだと思いつつも、怠惰さのために、あるいは他に関心があることのゆえに、それをしないことがある。しかし、それでもそうするべき、それなりの理由はもっているし、たぶん、いくらかは欲求も持っているのだから。

もっとも、道徳の外在主義的実在論が提起する問題というのは、換骨奪胎すればたしかに存在するとは思う。(1)その道徳的な内在的主義的な議論が、成功することがありうるのか。結局のところ、すべての議論はその主張へのコミットメントを引き起こすのに「失敗する」のではないのか。(2)「現在の道徳慣習には従えない」と強く主張するようないわばマイナスのモラリストではなく、新生児のように「道徳の議論」内在的な視点にまったく巻き込まれていない人を、さらに巻き込むことが正当化されるのか、ということだ。

(1)については、そんなことは誰にも分からないし、分からないからこそ「道徳慣習を改善する」プロジェクトを継続しているのだから、答える必要はないと思う。ただ、ひとつの可能性としては、受け入れざるをえない。(2)については、どう答えれば良いのか分からない。しかし、これに道徳の外在主義的実在論が答えられるわけでもないだろう。むしろ、強引に図式化すれば、道徳の外在主義的実在論のほうがこの問題を無視しており、道徳の内在主義的実在はこれに答えられなければならないはずだと迫っている、という構図になるのではないかと思う。

*1:

統治と功利

統治と功利

*2:

道徳の哲学者たち―倫理学入門

道徳の哲学者たち―倫理学入門