耽美×暴力

地震以来、日経新聞がすごく薄くなっているような気がするんだけど、どうしたんだろう?

それはともかく、日経新聞2011年3月27日(日曜日)の書評欄に、千野帽子菅聡子『女が国家を裏切るとき』の書評を書いている。その中につぎのような記述がある:

著者は〔…〕「セカイ系」と呼ばれる漫画や泣けるベストセラーにおける感傷の椀飯振舞を、暴力を隠蔽しつつ支えるものであると感じているのである。

僕は『女が国家を裏切るとき』を読んでいないし、菅聡子という方の他の本を読んだことはないし(たぶん)、書評としてこれが正しいのかどうかはまったく分からない(好意的な理解をするという原則に則って、たぶん正しいのだろうと思うが。)。

しかし、「セカイ系」の代表格といえば『最終兵器彼女』だと思うけど、あれって暴力が「隠蔽」されていたかな。ちせが圧倒的な暴力を振るう存在だというのがあの物語の根幹であり、たしかに絵としては妙に曖昧な描き方をされていたとは思うけど、その暴力が存在することは隠蔽されるどころか、くどいほどに強調されていたと思う。アケミの最後については、かなりはっきりと、グロテスクといっても良い描写をされていなかったっけ?

セカイ系」のもう一つの代表格だと僕が思うエヴァの旧劇にしても、従来のロボットアニメに比べて、暴力の生々しさが際立っていたように思う。

少なくとも『最終兵器彼女』については、暴力が「隠蔽」されていたのではなくて、むしろ、執拗で圧倒的な暴力が、恋愛という情緒と耽美的な美意識のもと救済を思わせるような描写をされていたことが、問題なのではないだろうか(プロブレムではなくてイシューとして)*1


もっとも、考えてみれば、春琴抄がそうであるように、「耽美」というのはもともと残酷性や暴力性をともなったものなのではないか、という気がする。そしてまた、圧倒的な暴力による終末論的風景が耽美的な何かをともなっているのも、いまに始まったことではないだろう。ヨハネ黙示録の奇妙で過剰な演出とか。

だから、「セカイ系」が暴力を隠蔽しないとはいえ、ある種の美化、しかも議論による美化ではなく情緒による美化をしているのはそうだろうとは思うが、それも何も最近はじまったことでもなかろうとも思う。

*1:セカイ系」とは言われることはないと思うが、『ベルセルク』や『ヘルシング』も、似たようなところがある。