動物愛護と優生学

ナチスの動物愛護政策には、たまに注目があつまる。すでにこういう分析があったように思うが、ナチスの「博愛的な」動物愛護政策と「残虐な」優生学的なホロコースト正当化は、べつに矛盾するものではなく、ある見方からは*1、どちらかといえば一貫したものだったかもしれない。

かつて「動物には魂がないので、動物は苦痛を感じない。動物が苦痛を感じていると考えるのは、人間の側の擬人化された投影であり、動物が苦痛を感じているかのように振舞うのは、たんにそれらの神経網や筋肉の反応に過ぎない」という議論がそれなりに説得力があった時代がヨーロッパにはあったようだが、科学が受容されるにつれ、説得力がない議論になってしまった。ヒト以外の動物に理性といえるようなものがあるのかや、ヒトのような豊かな感情があるのかは現在でも問題にすることはできるが、少なくとも「動物の場合は神経網や筋肉の反応に過ぎないのであり本当は苦痛を感じていない」というのは、あまりにも説得力がなさすぎる。

さて、現在でも倫理学の重要トピックである問題として、「動物も苦痛を感じているのであれば、動物を虐待することは、人間を虐待するのと同じような倫理的な不正なのではないか」という問題が生じる。動物愛護の考えの源の一つは、これに「倫理的な不正なのである」と答えることだ。

では、「動物を食肉とするために、いくらかの苦痛を与えることは、やはり倫理的な不正なのではないか」*2と問われたら、どう答えればよいのだろう。これに対して、「倫理的な不正なのである」と答えるとしよう。ではさらに、「それならば、なぜ動物の肉を食べることは許されるのか?」

もし、「倫理的な不正なのである。よって、私は動物の肉を食べない」と答えるのであれば、これほど一貫した回答はない。しかし、「自然界において、ライオンがシマウマを食べ、狼がウサギを食べるように、それが自然界の掟なのだ」と言い逃れてしまったとしよう。そうすると、優生学への危険な一歩が踏み出されたことになる。

*1:もちろん、僕がその「ある見方」をとるというわけではない。しかし、その見方をどうやって避ければよいのか、はっきりした答えは持っていない。

*2:ここでは、動物を食肉にするためには、苦痛を与えざるをえないことを前提としている。これは必然ではなく、現代社会ではなるべく苦痛を与えないような努力もされているらしい。