科学と宗教

一連の「疑似科学批判・批判」の後始末としても、科学と宗教の関係について、なぜ僕が科学的知見でもって宗教を批判して良いということにこだわるのか、ひとつ書き残していることがある。しかし、これを書こうとすると、どうしても攻撃的、独断的、大雑把になる。たぶん、僕がこの問題について、攻撃的、独断的に考えているからだろう*1。大雑把に書いてしまうところは、求められればもう少し詳しく書くことはできるけども、独断的な印象がより高まるだろうと思う。

しかし、これを書いてしまわないと、自分の中で「一通り終わった」という気分になれないので、いろいろな不都合に目をつぶって書いてしまうことにする。


記述箇所を発見できないので正確な引用ができないが、リチャード・ドーキンスは「宗教の側は、NOMA(重複することなき教導権)なんか守る気はない」といったことを書いていたと思う。「守る気はない」という意思*2があるかどうかは分からないが、現実問題、宗教はたいていはNOMAを守っていない、と考えるのが妥当だろう*3。つまり、「『本当の』宗教は科学と相互非干渉である」と考える人がいて*4、その「本当の」というのが「現実の」という意味であるならば、とくに例外的な事例を無理に一般化しない限り、間違った主張であると思う。

そして、その「本当の」というのが「理想的な」宗教や「あるべき」宗教という意味であるならば、それこそ「科学中心主義」といわざるを得ないだろう*5

ガリレオは、科学上の見解を発表したことで、宗教裁判で有罪となった*6。この事例を出すのは、それをもってただちに宗教を批判するのが目的ではなく、単純に、宗教と科学が衝突するのは当たり前のことなんだ、ということを言いたいがためだ。

宗教が科学と衝突するのが当たり前であり、それが現実であるにも関わらず、「理想的な」宗教や「あるべき」宗教は衝突するはずはないなどと言い出すのは、有史以来(たぶん有史以前から)宗教が行っていた自然・社会・人間の現実はどのようなものかという考察の営みを、500年程度まえにやってきた新参者の近現代科学が取り上げようとする行為だ。僕には、これは、科学にとって都合のよい「保護区」を宗教にあてがい、「ここから出ようというのはあなたの『本当の』あり方ではないのですよ」と言い聞かせようとする、極めて不遜な「科学中心主義」に思える。「お前たちは、ここから出るべきではない」と宣言するなら、まだマシだ。しかし、「ここから出ようというのはあなたの『本当の』あり方ではないのですよ」とは。

また、僕は科学が道徳に介入することを好ましいと考えているので*7、仮に、NOMAを守れる宗教家がいたとしても、つまり上の比喩で言えば「保護区」での生活に満足する宗教家がいたとしても、だからといって「保護区」を正当化する理由にはならない*8

僕が、科学が宗教を批判してかまわないと考える理由というのは、以上のようなものだ。逆に、「科学が宗教を批判していけない」というのは、その裏に、妙に理解者ぶった科学中心主義の傲慢な「『本当の』宗教」観が透けて見えるように僕には思える*9

「書き残していた」ことは、以上。


ところで、宗教が「科学的知見に反する」といえるかどうかは、本来は、それぞれの宗教の個々の経典、個々の教理、個々の儀式をひとつひとつみていき、それを一つ一つ科学的知見と照らし合わせていかなければならない。創世記は? 福音書は? 処女受胎は? 復活は? 阿含経は? 妙法蓮華経は? 輪廻転生は? 東方浄土は? マントラは? 古事記は? 地鎮祭は? ・・・

しかし、僕が、おおざっぱに「宗教が科学的知見に反しない見込みがほとんどない」と一般化して考えているのにも、いくらかの理由がある。僕が知っている限り、どの宗教も、生前/死後に存続する霊魂、肉体の死後の復活、なんらかの超自然的能力、超自然的因果、超自然的な人格神のどれかを肯定しており、そしてそれが教理的にも、また実践的にも重要な位置を占めているからだ*10。すべての宗教がこれらのすべての要素を持っているというわけではなく、これらのうち、どれかを持っていると考えている*11

例えば、「霊魂」は科学的知見に反しないのではないか、という意見もあるだろう。確かに、「霊魂」をどういったものか何も考えなければ、べつだん科学的知見に反しないだろう。しかし、実際には、ここで問題になっている「霊魂」とは、意志の力で物体(人間の身体)を動かす非物質的な何かだ。その「霊魂」は非物理的な因果関係でもって物体を動かしているわけだけど、そんな(いってみれば)テレキネシスのようなものを認めるならば、どうして『水伝』の主張が反証するまでもなく科学的に見込みがないといえるのか。では、科学的知見にしたがって、「霊魂」を人間の身体内(おもに中枢神経)の物理現象と同一視するとしよう*12。しかし、それなら、どうすればその「霊魂」が身体の誕生前や消滅後にも存続しているということを受け入れられるのだろうか。

基本的なポイントとして、現代英米哲学でいう「物理領域の因果的閉包性」、つまり非物理的な事物・現象が、人間が身体を動かしてしゃべる、書く、歩く、座るという物理現象を引き起こすことや、そのほかの物理現象に、わずかでも介入できるのか、ということが問題になる。ニュートン物理学の教えるところでは、できない。現代物理学でも、できないだろう。それとも一部の人が暗に想定しているように思えるようなこと、量子の存在確率の分布なら、それを意志の力で、マクロな現象として認識できるほど大きくかつかなり自由に操作できる、ということがあるのだろうか*13

「超自然的な人格神」について。たしかに、理神論をとれば、科学とは矛盾しないかもしれない。しかし、そのような理神論における神では、キリスト教の伝統的な教理のほとんどを支えることができないだろう。そもそも、世界の創造だけを行った神の概念で、聖書の「神聖な」権威をどう正当化するというのか? 神が世界の創造だけを行ったのであれば、どれだけよく言ったとしても、聖書の記述は神について理解をミスリードするようなフィクションだらけだといわざるを得ない。

「オーケー、ぜんぶフィクションやレトリックなんだ。ただし、有益なフィクションやレトリックなんだ」と、言ってしまってもかまわない。従来の経典や教理をそのままには信じず、価値あるフィクションやレトリックとしても、なお仏教徒であったり、クリスチャンであったりしつづけることはできるだろうと思う(NOMAを支持する、というのは、たぶんそういうことだろう)。しかし、そのような仏教徒やクリスチャンの思想や生活を、なおも「宗教」と呼べるだろうか僕は疑問に思っている*14

というのは、無宗教の僕でさえ、宗教経典や教理などを「有益なフィクションやレトリック」として読むことはできるから。無宗教世俗主義者として自分の立場をかなり固めてからさえも、創世記、福音書キリスト教神学の教科書、嘆異抄、初期仏教経典、禅宗公案などは、自分の考えを反省するために読んだ(必ずしも、通して読んだわけではないけど)。そして、これからも読むだろう。しかし、宗教をよく知り、自分と自分の属する社会がよってたつ伝統をよりよく理解し、そのなかの何かに共感したり、説得力を感じたり、それをもとに内省したりすることと、宗教を「信じる」ことは別のことだ。


最後に、たぶん、これを強調しておかないといけないと思うのだけど、べつに科学的知見そのものが宗教の教理と矛盾する、ということを、科学的方法論だけでいえるということをいっているわけではない*15。つまり、宗教の教理と科学の知見を同一のカテゴリのものだと、単純にみなしているわけではない。科学的知見をもとに、合理的に考えれば許容しがたくなるということが、宗教にも道徳にもある、という考えを書いている。この「合理的に」というのは、「科学的に」という意味ではない*16。ただし、その場合の「合理的に」というのを判定する特権は、宗教の側にあるけでもなく、道徳の側にあるわけでもなく、科学の側にあるわけでもなく、誰だって、何に対しても、いつだって使ってよい、少なくとも主張してよいと考えている。

*1:攻撃的、独断的なのは、これが本来は、かつての自分に対する自己批判だから。

*2:あるいは「守ろう」という意思の欠如。

*3:ちなみに、僕はドーキンスの宗教批判は、宗教の「伝統」を等閑視しすぎていると思う。例えば、NOMAを守ろうという意思が個々の宗教家にあるかどうかは、あまり問題ではないと思う。むしろ、宗教の伝統がどういったもので、NOMAを守ってその伝統を維持することができるのか、ということのほうが問題。また、僕の見方からすれば、宗教家がNOMAを守ろうとしないのだとしても、それ自体はべつに非難するようなことではない。その非難するようなことではないというのは、このエントリの前半の主張のコロラリー。

*4:そういわんばかりの人が多いように感じるのだが。

*5:これが、僕が「書き残した」と感じていた点。

*6:ガリレオの名誉は、回復されている。ちなみに、「宗教裁判」なんて時代錯誤な、と思う人がいるかもしれない。しかし、(ガリレオの裁判そのものは今となっては時代錯誤かもしれないが)教会法にもとづく裁判は、カトリックは今もやっている。イスラムも、一部の国家では、そう。これも、宗教っていうのはそういうものなんだ、という話。

*7:この点は、ドーキンスと違うかもしれない。

*8:この結論そのものはドーキンスと同じはず。

*9:とはいえ、べつに宗教を弁護する気がない僕がこんなことを書くのも、妙に理解者ぶっているのかもしれないが。

*10:禅宗は、いま列挙したものが「重要な位置を占めている」かどうかという点については、かなりこの批判を免れているかもしれない(ちなみに、初期仏教が免れているとは思わない。超能力と輪廻転生が存在することは、強いて「解釈」をほどこさない限り、初期仏教経典で重要な前提となっていると思う)。しかし、少なくとも、実際に禅宗のお寺に行ったことがある人なら、そこに超自然的な菩薩への信仰を認めるのは容易だろう。

*11:ギリシア・ローマ・ガリアの(諸)宗教、ユダヤ教キリスト教イスラム教は、こういった要素を持っている。近代になって「宗教」という概念が一般化するにつれその境界ははっきりしなくなったが、こういった要素を持たないものにまで「宗教」というカテゴリーを本気で広げようとした人はいないのではないかと思う。

*12:これは単純化しすぎだと思うけど、いまそれを云々する力は僕にはないし、云々する必要もないだろう。

*13:もちろん、僕は、ないと思っている。

*14:また、少し考え中だが、「宗教」と呼ぶべきではない理由がひとつはあるとは思っている。こういった思想(と生活)は、世俗的な思想と決定的な違いはないはずなのに、「宗教」と呼ぶことによって特殊な法的な保護、思想的な保護を受けてしまいかねないから。なお、「宗教」と呼ぶにせよ、呼ばないにせよ、科学からの批判から保護されるべきだということには必ずしもならない。

*15:経典を文字通り読めばそういうこともあるといってよいと思うけど、ほぼつねに「それは有益なフィクションだ」という議論が可能なので、ある程度の抽象的な教理と、明示されてはいないが広く受け止められているような、あるいはその教理を自然に受け止めればこうなるという帰結を問題にせざるをえない。

*16:なお、「自然の斉一性」というのは、たんに科学の原理だというようには僕は考えていない。「自然の斉一性」のより一般化され、より穏やかにされたバージョンは(それをどう定式化すれば良いのかよく分からないけど)、合理的に考えるためのひとつの条件なのだと思う。そうでなければ、たぶん、僕たちは「見間違え」や「思い違い」という概念を理解できないだろう。