科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか

はじめに

端的に言って、私は「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」というような考え方に否定的で、これに固執するべきではないと考えています。

疑似科学批判・批判」の一連のエントリについて、田部勝也さんからいただいた批判の一部は、この考えを批判するものなのかもしれません。他方で、「疑似科学批判・批判」の一連のエントリはもっと過激な表現を使っていたので、そこまで過激でなければそれで良いのだ、ということになるのかもしれません。

田部勝也さんからいただいた批判やコメント(一部):

このエントリは、これは田部勝也さんへの応答の趣旨もありますが、どちらかといえば、ひたすら私の道徳に関する考えを説明しています。その大部分は、きわめて抽象的でメタな議論です。べつに、田部勝也さんをメタゲームで批判しようというのではなく、実際に、私はメタな議論によって、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」というような考え方に固執するべきではない、という結論に至っているからです。

具体論

想像ですが、具体的にどういうものに出会ったときに、どういうふうに反応するかという点について、雑駁な方向としては、私と田部勝也さんに大きな違いはないのだろうと思います。例えば、私は次のような判断をするでしょう:

  • 『水伝』の支持者が言葉の使い方・マナーといったことに援用すること → よくないこと
  • 医学的知見が広まってハンセン病患者への差別に批判がひろまった → よかったこと

ひとりひとりが、あるいは社会という集団として、(1)道徳的判断をする際に科学的知見を取り入れいくこと自体は悪いことではなく、むしろ適切な形であれば望ましいことで、ただ、(2)なんでもかんでも道徳的判断を科学的知見で代替させようとすることには否定的*1、ということでは違いがないのではないかと想像しています。

もちろん、具体的なレベルでも違いはあるでしょう。例えば、『水伝』が道徳的な主張につなげようとすることについて、田部勝也さんは精神の惰弱さをみてとり、怒りを感じられるのだとしても、私は、それに怒りは感じません。

逆に、ハンセン病患者への差別への批判が高まったことについて、科学的知見が取り入れられた結果であることは田部勝也さんもお認めになるでしょうが、科学的知見だけで結論を出したわけではなく、べつだん怒りを感じないということだろうと思います。他方、私にとっては、これは「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」といった考えに足をとられずに、きちんと科学的知見が反映された成果として、評価することになります。

ひとまず、どちらを重視するかという地点に話をとどめると、前者を重視して「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」と強く主張するか、後者を重視して「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えに固執するべきではないと主張するか、というのはどちらもありうる、ということになるのではないでしょうか。

価値と事実の領域分割

「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えに固執するべきではないという私の考えは、ニセ科学の主導者・支持者と同じ穴の狢に見えるかもしれません。

しかし、私からみれば、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えに固執することと、ニセ科学の支持者が彼らみて「科学に裏付けられた道徳」に飛びつく心性は、どちらも、説得力のない形而上学的前提か、それから派生してきたものに由来する双子の子どもに映ります。

どちらもそれに由来するという説得力のない形而上学的前提とは、つまり、価値の領域と事実の領域が決して交わらない形で厳然と分割されている、という前提です。それから派生してきたものとは、私たちの心のなかに事実認識と「価値観」なるものが別々に存在していて、両者をあわせて価値判断がアウトプットされるという構図です。この二つをあわせて、「価値と事実の領域分割」と呼ぶことにします。

ニセ科学の支持者が、彼らの目から見て「科学に裏付けられた道徳」に飛びつくのは、そうではない道徳的判断が「ただの主観的なもの」に見えるからではないでしょうか。私がそこに何かいうとすれば、そうではない、「科学に裏付けられていない道徳」だからといって「主観的だ」とかいうのはくだらない形而上学を真に受けすぎた結論だ、「科学に裏付けられた道徳」だろうと「科学に裏付けられていない道徳」だろうと道徳的判断は客観的たりえる、ということです。

そして、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えに固執する人にも同様に、私は、それだって価値と事実の領域分割にとらわれた考え方で、説得力のない形而上学の残滓だ、というかもしれません。

「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えの根拠は価値と事実の領域分割である、という点については論拠はとくに与えません。強いていえば、私にはそれ以外の根拠は思いつかないから、というものです。ただ、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えの現実に悪影響があるという具体論については、すでに簡単にケース・バイ・ケースだといったことを述べており、これは最後の「まとめ」でももう一度主張します。

以下、価値と事実の領域分割の説得力と魅力を否定する、私の考えを述べていきます。

価値と事実の領域分割の説得力の否定

価値判断と事実認識の区別というものは、たしかに、いちおうできます。少なくとも、ほぼ事実認識のみであるというものはあるでしょうし、ほぼ価値判断のみであるというものもあるでしょう。しかし、価値判断と事実認識という人間の営みがいちおう区別できるということから、それは厳然と二つの領域に分割されなければならないということがいえるでしょうか。

泳ぐことと自転車で走ることという人間の営みもいちおう区別できますが、水上自転車をまえに「これは、ほんとうは泳ぐことなのか。それとも、ほんとうは自転車で走ることなのか」と議論したり、水上自転車を発明した人をあるべき社会の姿を破壊してしまった人のように非難するのは、くだらないことでしょう。

同じように、価値判断と事実認識という人間の営みがいちおう区別できるということから、価値の領域と事実の領域が厳然と分割されなくてはならないということは帰結しません。(1)価値判断は事実判断ではないのでまったく主観的だとか、(2)価値の領域に科学が干渉するのは重大な領域侵犯だ、ということは帰結しません。

価値と事実の領域分割は、私たちの常識に広くいきわたっている考えですが、そのような形而上学思想の代表といえば、やはりカントとカント学派でしょう。しかし、カントの壮大な形而上学に賛同できるでしょうか? カントは「二つの世界」タイプの形而上学*2をつくってしまった哲学者のひとりですが、そういった「二つの世界」タイプの形而上学はどれも結局は説得力がないように思います。

形而上学ではなく、人間の心理の分析として、心のなかに事実認識と「価値観」なるものが別々に存在していて、両者をあわせて価値判断がアウトプットされるという構図も、やはり説得力を感じられません。そんな、事実認識と切り離された単独の「価値観」なるものを、少なくとも内観的に発見することが私はできません。その「価値観」なるものは、(a)すべての価値の序列、(b)価値ごとに重み付けた関数、(c)事実判断をインプットしたら価値判断をアウトプットするブラックボックス、のどれに似ているのでしょうか。そういうものを自分の心の中に発見できた人がいるようには思えません。いや、そうではない、そういうものではないが、たしかに「価値観」は存在しているとおっしゃるかもしれません。では、それは、「どういうもの」なのでしょうか?

もっとも、私も、価値判断の傾向性という程度の意味でなら、「価値観」という言葉を使っても支障はないと思います。心理学、実験経済学のような分野では、価値判断の傾向性を、実証的に抽出できるのかもしれません。しかし、それ以上のものがあるようには思えません。

(ここは個人の「価値観」について述べており、社会の「価値観」については別の話です。)

私たちの事実認識、あるいはせめて事実の仮定を前にした価値判断の以前に、「価値観」なるものが価値判断を行うように私たちの心の中で待ち受けている、と考える理由はなんでしょうか。そう考える理由は、事実認識の組み合わせだけで価値判断ができるわけがないという考えをもとにしているかもしれませんが、その「できるわけがない」という根拠は、説得力がない形而上学のほかには何も私には思いつきません。


たしかに、科学という文化領域があって、道徳という文化領域があって、それは区別できるといってもよいと思います。しかし、それらがいちおう区別できるということは、両者を厳格に分けておかなければならない理由にはなりません。

価値と事実の領域分割の魅力の否定

ここまでは、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えが前提しているだろう価値と事実の領域分割に説得力がない、ということを述べました。このセクションでは、価値と事実の領域分割に魅力がない、ということを述べます。


価値と事実の領域分割のうち、カント的な「道徳の領域を理性で探求でき、道徳は客観的だ」といったタイプの形而上学には、ここでの批判は当てはまりません。このエントリでは、そういった「二つの世界」タイプの形而上学は、たんにあまりに説得力がないために棄却される、ということにします。ここで問題にするのは、私たちの心のなかに事実認識と「価値観」なるものが別々に存在していて、両者をあわせて価値判断がアウトプットされるという構図です。

そういった「価値観」なるものが私たちの心のなかに存在するという考えは、価値判断は基本的に主観的だという考えをもたらします。それが、ある人々から道徳そのものへの信頼を失わせ、ひたすら科学的知見を追い求める心性へと追い立てているように思います。逆に、その『水伝』に集まる人々を惰弱だと断じるのだとしたら、それは、価値判断は主観的だという前提を共有しているから、その現実にどう耐えるのかというところで、自分の惰弱さと同じものに負けている人々だから、怒りを感じるのではないでしょうか。

しかし、どちらにせよ、価値判断は主観的だという前提を持っていることに違いはありません。価値判断は主観的だという以上、いくら寛容を説こうと*3、その惰弱さに対応する強靭さというのは、結局は「オレはオレの道徳的判断に従う。文句があるか」という独断論にしかならないように思います。


少なくとも私にとっては、そういう「強靭さ」よりも、もっと魅力のある立場があります。それは、道徳の可謬主義です。自分の道徳的判断をいちおう客観的に正しそうなものとして信じ、しかし間違っているかもしれないから慎重に振る舞い、そして間違っていることが分かったら改める、そういう道徳の可謬主義のほうが、ずっと魅力があるように思います。


私たちは民主主義社会に生きています。そこでは、投票を通して自分の道徳的判断を他人に強制することは避けられず、私たちはそうするように奨励されています。数は多くないものの、ある行為を犯罪にするかどうかといったことがクローズアップされた投票では明白にそうですし、程度は軽いものの、社会福祉政策や外交政策を支持するかどうかというときもそうです。そこで、主観的な道徳的判断、言い換えれば自分の趣味・嗜好を他人に強制し、ときには死に至らしめることに後ろめたさはないのでしょうか。

また、そのような政策を通した他人への道徳の強制の前に、私たちは他の人々と民主的に議論しなくてはなりませんが、その「議論」や「説得」は、じつは、自分の趣味・嗜好のディスプレイを行っているに過ぎないのでしょうか。そうであるのならば、「議論」や「説得」を行わず、金で票を買ったり、脅迫して投票を止めさせたり、ニセ科学を持ち出して騙したりするよりも、趣味・嗜好のディスプレイを行っているほうがマシだという理由はあるのでしょうか。趣味・嗜好のディスプレイに過ぎないその「議論」や「説得」には、たぶん、合理性や論理性も関係がなく、他人の心理に因果的に影響を与えているにすぎないのに*4

道徳の可謬主義者たちでほとんどが構成された民主主義社会を想像してみてください*5。ひとまず自分の道徳的判断をいちおう正しそうなものとして信じているけども、本当により正しい道徳を真剣に探求して議論を行い、説得されれば意見を変え、また説得を試み、そしてそれを政策に反映している社会を考えてみてください。そちらのほうが、価値と事実の領域分割が強要する民主主義観(趣味・嗜好のディスプレイ)よりは好ましいものに思えます。


そもそも、道徳の可謬主義をとらないというのは、科学的な実証というほどでは全くありませんが、私たちの素朴な日常の経験に反しています。誰でも、他人から指摘されて、以前の自分の道徳的判断が「間違っていた」と考えることがあるのではないでしょうか。あるいは、逆に、自分のほうが「正しい」と説得を試みることがあるのではないでしょうか。私たちは道徳の実在論者(認識主義者・客観主義者)、そして可謬主義者として生きているのが現実だろうと思います。

中間まとめ

このエントリでは、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えに固執するべきではないという私の考えを擁護しようとしており、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えの根拠は価値と事実の領域分割だとして、価値と事実の領域分割に説得力はないと述べました。また、道徳の実在論・可謬主義に比べると、(非形而上学的な)価値と事実の領域分割は魅力がないということを述べました。

「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えに固執するべきではないというだけであれば、成功しているかどうかともかく、説得力がなく、魅力がないという論拠で十分だと思います。説得力がなく、魅力もないのであれば、固執する理由はありません。

以下、加えて、疑問が出るだろう文化相対主義を無力化することと、道徳の実在論が成り立ちそうな考え方があるということを、補強として述べます。

文化相対主義について

たしかに、社会によって、その道徳慣習は違います。ある社会では道徳的に正しいとされていることも、別の社会では間違っていることがあります。

しかし、道徳の実在論をとっても、これを説明することは容易です。たんに、どちらかの社会が間違っていると考えればよいのです。

これはたしかに、一見、傲慢な態度です。しかし、それが傲慢なのは、なぜでしょうか。一方の社会の道徳慣習の押し付けは、他方の社会の人々に屈辱を与える、社会が混乱して悲惨なことになる、そういった結果をもたらします。しかし、その屈辱を与えることや、社会混乱の悲惨さが悪いことだと考えるのは、私たちの道徳的判断です*6。私たちが、私たちの道徳的判断として、そういった押し付けが悪いことだと判断しています。

事実認識として*7、道徳慣習は社会に相対的です。しかし、一度、道徳的判断にとりかかれば、私たちは自分達の社会の道徳慣習にコミットし、それを頼りにせざるをえません。いわば、私たちは自分達の社会の道徳慣習がいちおう正しいのだと、信じ込んでいるように振舞わざるを得ません*8。それをやらないと、それぞれの社会の道徳慣習を尊重するべきだという価値判断は出てきません。

逆に、正しい唯一の道徳などなく、ある社会ではこれは正しい、ある社会ではこれは正しくないという事実だけからは、だからそれぞれの社会の道徳慣習を尊重するべきだとも言えそうですが、逆に、だからどれも尊重する必要などないのだとも言え、何の結論も引き出せません。

ですから、文化の相対性にこだわっても、あまり得るところはありません。なんにせよ、私たちは、自分の文化の道徳慣習がいちおう正しいと信じ込んでいるかのように振舞わざるをえないからです。むしろ、道徳の実在論、可謬主義をとって、他の文化の道徳慣習をもしかしたら正しいものかもしれないと考えて参考にし、また他の文化への介入について、自分の社会のメンバーと知恵を合わせて議論できるだけ、マシなように思います。

道徳の実在論の説得力

ここは私も迷っているところですが、道徳の実在論の説得力を少し説明できるように、試みます。価値と事実の領域分割を否定し、カントのような「二つの世界」タイプの形而上学を棄却した以上、やはり、道徳というものがどこに実在するのか、という疑問が生じざるをえませんから。


まず、道徳の実在論をとるのに、可謬主義もともなっていれば*9、唯一の正しい道徳規範というものが存在するとまで仮定する必要はありません。「より正しい」ということがあれば、それで十分です。

つぎに、私は、科学のほうが道徳よりも、ずっと… よい言葉がありませんが、ずっと「客観的」*10であることを認めます。そういう区別ができることは否定しません。私はただ、だからといって道徳がまったく主観的で、客観性がないといえるのか、ということを問題にしています。

さらに、私は、事実認識と価値判断がいちおう区別できること、すくなくとも、ほとんど価値判断だけであるものと、ほとんど事実判断だけであるものを区別できることを否定してはいません。それが、明確に二つの決して交わらない領域に分割されるということを否定しています。ですから、すべての価値判断と事実認識は区別できないとかまで、主張する必要はありません。たんに、その中間的なものといったものが、それなりにあるだろうといえれば、それでよいのです。


ここまでくれば、「人道的」「残酷」「誠実」「正直」「残忍」といった道徳的な区分を、「熱帯雨林気候」とか「ステップ気候」とかといった気候区分と同じようなものとみなせば良いのではないでしょうか*11。気候区分体系は、人為的な側面があります。よくよく考えれば、気候区分そのもののの実在性、それがどこに実在しているのかというのは、うまく答えられません。しかし、それによって区分されるような気候の特色が実在しない、などといえるでしょうか。

では、「人道的」「残酷」「誠実」「正直」「残忍」といった道徳的な区分で表現される、状況や人格の道徳的性質が実在していても、何の不思議もありません。そして、気候区分と同じようにいくらか人為的ですし、いくつも競合する基準があります。しかし、やはり気候区分と同じようにそれは事実に即したもので、事実をよく調べることによって、よりよい区分を探求していけると考えて、何かおかしな「実在性」を信じていることになるでしょうか。


そんなこと当たり前だ、と言われるかもしれません。その当たり前のことが重要なのだと思います。

いま、私は道徳の実在論(認識主義・客観主義)を擁護しようとしています。そして、その擁護はたいへんなものでなくて良いということを説明しました。「より人道的だ」というのは「より道徳的に正しい」という意味を、完全に必然的なつながりではないとしても、含意しています。そういった区分を当たり前のように使え、これの実在性に疑問はありません。

価値と事実の領域分割の説得力と魅力の否定し、文化相対主義を無力化しました(成功していれば)。それならば、じつは私たちは道徳の実在論者・可謬主義者として生活しているというその当たり前の事実を、そのまま受け入れて、何かまずいところがあるように思えません。その当たり前の事実を受け入れるほうが、カントのような「二つの世界」タイプの形而上学を受け入れるより、ずっとマシでしょう。また、私には「価値観」なるものを過度に実体視して価値と事実の領域分割を擁護するよりは、説得力があるように思えます。


道徳の実在論の擁護は、これだけです。もっと書くこともできますが、プラトンやカントのような「二つの世界」タイプの形而上学を拒否しても、道徳の実在論(認識主義・客観主義)を受け入れる余地はあるといえれば、十分ですから。また、正直、私の考えも固まってはいません。

まとめ

長いながい抽象論が続きました。そんな話はどうでも良い、という方もいらっしゃるでしょう。

はい、それに賛同はしませんが、ひとまず、そういう抽象論はどうでも良いことにしましょう。そのかわりに、科学が道徳に干渉してはいけないという、何か「本質的な」理由、道徳と科学の「本質的な」違いとか、価値と事実の「本質的な」違いとか、当為と存在の「本質的な」違いとかも、どうでも良いことにしてください。

私の抽象論をそれが形而上的だという理由で棄却するのであれば、道徳と科学、価値と事実、当為と存在の形而上的な区別も棄却してください。とにかく、科学と道徳という二つの文化領域が現実にある、という、ただそれだけの事実のみに注目してください。そこから、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えが導き出せるでしょうか?


田部勝也さんは、次のように、現実的な悪影響があるということを強調されています:

しかし、私は、はじめの具体論で、それはケース・バイ・ケースだというようなことを述べました。実際、ケース・バイ・ケース以上の何かがいえるでしょうか。問題があるようなら、個別に注意をすればよいのではないでしょうか。例えば、科学的知見は道徳に影響をあたえる、それは良いときも、悪いときもある、科学的知見ばかり追い求めるのではなく、きちんと道徳的判断として検討するべきだ、といえば、それはすむ話でないでしょうか。

もし、科学から道徳へ悪影響があったケースのほうが圧倒的に多いのであれば、たぶん、私たちは近代科学の発達以降、もっとも劣悪な道徳慣習の社会に生きているはずだろうと思いますが、私にはそうは考えられませんし、そう考える理由も思いつきません。


私の主張には、多くの穴があります。私は、「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えの根拠は、価値と事実の領域分割だとみなして、それだけを攻撃しました。それも、価値と事実の領域分割を正当化する説得力のある理由が思いつかない、というような攻撃です。

ですから、価値と事実の領域分割以外の根拠で「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えが正当化できるなら、それでこのエントリの議論の大部分は無意味になります。また、価値と事実の領域分割を正当化する根拠があるなら、それで私の議論は論駁されます。

しかし、そのどちらも、かなり難しそうだと私は思っています。

*1:というか、それは不可能ごと。

*2:『「二つの世界」タイプの形而上学』というのは、私の造語です。たぶん、ニュアンスは分かると思いますが。

*3:寛容を説くこと自体は、賛成ですが。

*4:もし、感情のディスプレイであっても、それによる議論や説得に合理性や論理性といったものがあるというなら、それでも構いません。それは結局、私が想定する道徳の可謬主義者とほとんどかわりありません。ただ、その場合、道徳が「主観的」だ、というのはかなり弱い意味になります。それは、事実認識もまた個人が行うことなのでその意味では「主観的」だというのと、どう異なるのでしょう。また、そういう意味で「主観的」なのならば、事実認識と価値判断の中間的なもの(「混合的なもの」ではなくて)が考えられない、ということが受け入れられるでしょうか。

*5:これは、極端な対比のために書いているので、私はべつに、明日から全員、道徳の可謬主義者になれば良いと言っているわけではありません。むしろ、そういうメタレベルにも批判者はいくらかはいたほうが良いでしょう。ともかく、なんであれ、そういった均質性というのは気持ち悪く感じます。

*6:もし、どっぷりと帝国主義にそまった覇権主義者なら、そうは考えないでしょう。

*7:事実認識と価値判断が、いちおう区別できることは、私は肯定しています。反対しているのは、それらが、二つの絶対に交わらない領域に分割されるという考え方です。

*8:そうではないのであれば、多くの人は実際には社会の道徳慣習などにコミットしておらず、そもそも道徳慣習など存在しないことになります。その帰結でも、文化相対主義は無力化されます。

*9:可謬だからダメだというのでは、科学も主観的なものになります。その場合は、このエントリの説明とは、まったく逆の方向で、しかし同じ結論が導かれるでしょう。

*10:私は「信頼できる」と言いたいですが、これはミスリードな語感を生んでしまいます。

*11:気候区分の例がどれほど適切かは分かりませんが、たぶん、ニュアンスは分かると思います。