直接実在論(追記)

例えば、ある人が財布をベッドの下に落として、箒の柄でその財布を突いてベッドの反対側に弾き飛ばすとする。

ここで、「その人が動かしているのは『ほんとうは』箒の柄なのであって、財布ではない」とか、「いや、『ほんとうに』財布を動かしているのだ」とかいうことは、あまり意味がないだろう。これは、動かしている主体と、動かされている客体の問題だが、こんなことは、本来どちらでもよい。もっとも、親指の負傷の治り具合に言及したいのなら、手がどんな形状で握られているのか問題だから、箒の柄を動かしているといったほうが良いだろう。逆に、ベッドの下の明るさやその人の視力を問題にしたいのなら、財布を動かしているといったほうが良いだろう。だから、場合によっては、どちらかのほうが良いということもありえる。

僕が上で展開した直接実在論の擁護は、まず、意識する主体と、意識される客体の問題を、これと同じようにみなす。「ほんとうは」センスデータを見ているのだとか、「ほんとうに」客体を見ているのだとか、ケース・バイ・ケースで決めれば良い。

もっとも、それに加えて、次のようにいう: 「ところで、『センスデータ』の基準はなんですか?」

直接実在論は、これに、一般的でかつ明確な基準はないだろうと思っている。だから、直接実在論とセンスデータ説が、ケース・バイ・ケースだと考えているわけではない。哲学学説としては、センスデータ説は無理があると考えている。しかし、いわゆる「センスデータ」のような概念を、ケース・バイ・ケースの基準で、ケース・バイ・ケースに使う分には、必ずしも反対しないだろう(と、僕は思っている)。「センスデータ」に一般的でかつ明確な基準があると思っている、それは哲学的に探求できると思っている、心について分析するためには「センスデータ」についての一般理論が必要だと思っている、というのは困りものだというだけだ。