疑似科学批判・批判の補足(たぶん最後)

次に、すでに書いた点を、もう一度繰り返します。

「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」という立場がありえないという意見が、圧倒的多数であることには、いまだに戸惑っています。

第一に、疑似科学批判をされている方の多くが、そういう立場を取っていないこと、そういう立場に興味もなく、実際に立たないだろうということには同意します。第二に、このような立場が、科学の領分、ないしは科学者としての領分を踏み越えたものであることにも同意します。この二点についていうならば、その意味では、たしかにありえない、ないしは、ほぼありそうにないことです。ブクマコメントなどでこの点についてコメントを下さっている方が、そのことだけをおっしゃっているのであれば、それはご指摘のとおりです。

ただ、ある科学者が科学者としての領分の問題ではなく、その人の個人の意見としてこのような立場に立ち、また疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということがありえないということは納得できません。実際、エルンスト・マッハは「科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのである」といった立場に近いところにいたはずだと思いますし、リチャード・ドーキンスは宗教を罵倒しています。

道徳を罵倒した著名な科学者を実際には知りませんが、私の友人の一人である医学者は、道徳に対してたいへん嘲笑的です。また、割合は分からないものの、少なくない科学者は道徳について文化相対主義に近い立場をとっているのではないでしょうか。文化相対主義をとるならば、「この文化においては、この行動は道徳的に正しい。別の文化においては、正しくない」ということと、「道徳に正しい本当の答えなどないのだ」ということに、どれほどの違いがあるのでしょうか(私はいま、哲学的な立場の話をしています)。

繰り返しですが、私は、なにか「スーパー科学」とでもいうものができて、それが宗教や道徳を駆逐してしまうようなことを言っているのではありません。たんに、宗教や道徳に「本当の答え」などないという立場が哲学的立場としてありえ、その立場からは宗教や道徳を罵倒する行動もありえるだろう、と言っているにすぎません。