ポルノ規制論についていくつかのこと

以前のエントリを書いたときから考えていたことだけど、ポルノ規制論についていくつか書いておく。

憲法

ポルノの制作、頒布、鑑賞、使用は憲法上保護されるか? 僕は、保護されるがポルノ規制は違憲ではない、と考える。


まず、僕は、憲法13条の幸福追求権について、一般的自由権説が妥当だと考える。つまり、人は、散歩をすること、公園でハトに餌をやることといった「他愛のないこと」についても憲法上の自由を有しており、合理的な理由がないかぎりそういったものでさえ国家が規制するのは違憲であると考える。そのような一般的自由の一部としてマスターベーションの自由も保護されるし、ポルノの制作や頒布、購入もまた、少なくとも一般的自由の一部としては保護される。

しかし、この一般的自由の保護は、基本的にはかなり弱い。日本は民主主義体制をとっている以上、議会への裁判所の介入は抑制的でなくてはならず、こういった一般的自由の制約を議会が立法で行う場合、「かなり見当違い」といったようなものでないかぎり、裁判所は議会の判断を尊重するべきだ。

もっとも、表現の自由は一般的自由とは区別される独特の権利であり、手厚い保護に値すると、憲法学説では広く考えられている。ポルノを視野に含めるとよく分からなくなるが、判例も一般論としては、表現の自由はとくに手厚い保護に値すると考えていると見てよい。

しかし、僕は、表現のうち憲法上とくに手厚い保護に値するのは政治的言論のみであり、芸術価値が高かろうと、学術的価値が高かろうと、大文学であろうと、ポルノであろうと、政治的言論でないかぎり保護の程度としては一般的自由と同等だと考えるべきだと思う。そして、ポルノはたいてい政治的言論ではないので、一般論としては、一般的自由と同じレベルでしか保護されない。


ただ、僕は基本的に以上のように考えているが、少しだけ引っかかるところがある。つまり、捜査機関や裁判所の民主的コントロールという面において、表現内容規制は独特の問題を抱えているのではないか、という点だ。これは、ポルノ規制が冤罪を生む、という議論とも関係してくる。一般論として、ほとんどの刑罰条項は表現規制だろうとなかろうと冤罪を生みうるのだが、それが冤罪であるのかどうかチェックする機能が弱まる理由があるのなら、とくに警戒する理由があるだろう。

一般に裁判は公開され、その記録も公開される。また、その記録を元に報道することができ、捜査機関や裁判所の判断が適切であったかどうかマスメディア上で議論される。しかし、表現の内容規制の場合、その規制を徹底的に行おうとすれば、マスメディア上で実際に規制されたその表現内容を再掲して、議論を喚起することもかなり萎縮させることになる。実際のブツがないところで、その内容を例えば「わいせつ」だとか、「差別的」だとか認定した裁判所の判断は適切なものであったのだろうか、という議論をすることになってしまう。

これが、表現内容規制は捜査機関や裁判所の民主的コントロールを困難にするという問題で、この問題があるがためポルノ規制も含めて、表現規制については独特の憲法上の顧慮が必要であるように思える。これはポルノに憲法上とくに保護するべき価値があるかどうかとは独立の問題だ。


この点については、一度は禁圧されたポルノグラビアをそのまま再掲するのであれ、それが政治的言論の一部としてなのであれば規制するべきではない、として前述の「政治的言論か否か」の基準に回収すればよいのではないかとも思うものの、釈然としないところはある。

直観と常識

直観と常識を基礎に人間の心理を推測したり、その動向を予測したりすることを簡単に擁護するとともに、それに関して気になることを二つ取り上げたい。


『ポルノグラフィ防衛論』でナディーン・ストロッセンは、ミース・ポルノグラフィ委員会報告書について、次のように述べる:

ポルノグラフィの害を検討する際に、委員会は、道徳のみに依存し、「常識」、「個人的考察」、「直感」などに基づいて結論を出したことをはっきりと認めている。

369頁

前後の文脈から、ストロッセンは「常識」「個人的考察」「直感」などに基づいて議論をすることに批判的なのはたしかだろう。

しかし、残念ながらというべきか、僕たちはいまだに人間の心理一般の動向を推測するための確かな科学的理論も、計測器も持っていない。他方で、僕たちの常識や直感、あるいはもしそういいたければ僕たちの脳は、かなりの確実性で人間の心理を推測し、その動向を予測することができる。

「君は頭がいいね」とある人がいうときの声色、表情、その前後の振る舞いから、それが本心からの賞賛なのか、あるいは歓心を買うための追従なのか、嘲笑的で侮蔑的な皮肉なのか、かなりの程度で推測できるし、またそれは常識として共有されている。かなりの程度で推測できるし、共有されているからこそ、そのような賞賛、追従、侮辱を使い分ける演技もまたできるのだ。

たしかに、この直感や常識は間違うこともある。ときどきどころか、けっこう頻繁に間違うし、その間違いが、家族や友人との個人的不和から、民族レベルの偏見まで悲劇的な事態を招きもする。しかし、いろいろ注意すべきことや、差し引くべきことがあるとしても、この常識や直感、あるいは僕たちの脳以上に一般的かつ正確に人間の心理を推測するための理論や装置があるわけではないし、この常識や直感が少なくとも普段はそれなりにうまく機能しているからこそ、家族や友人関係、職場や地域社会、あるいはある国全体の社会などが共同体としてそれなりにうまく機能しているのだと考えざるをえない。

だから、直観と常識を基礎に人間の心理を推測したり、その動向を予測したりすることは、正当なことであり、むしろ必要でさえあることだ。ポルノが性犯罪を助長するのかどうかという点についても、直観と常識を基礎に人間の心理を推測したり、その動向を予測したりしても何も不当なことはなく、むしろ必要なことだろう。

僕は常識と直感を基礎に、ポルノが性犯罪を助長すると考えるし、この点でいわばポルノ規制賛成派に賛同する。しかし、いくつのかの点については、留保というか、注意をはさんでおきたい。


まず、第一に、マッキノンなどのフェミニストがこのような「直観と常識」論法を援用することについて*1、奇妙さを感じる。

「直観と常識」論法を認めるということは、現状の「常識」に権威を認めるということであって、全体的には社会の変革を抑制する保守的な機能を営む。それは、フェミニストにとって不都合なことではないのだろうか? 例えば、かなり多くの人の直感と常識は、女性の方が育児に向いているから専業主夫よりも専業主婦のほうが圧倒的に多いことは自然なことだし、女性の方が育児休暇をより多く取得することも自然なことだと認めるのではないだろうか。


また、第二に、きわめて当たり前のことだが、直観と常識に基づいた議論は、きわめてしばしば意見の対立を生む。その場合、どちらかの意見が間違っているということだから、そのこと自体が、「直観と常識」論法は不確かであってしばしば間違いうるものだということを示している。そして、その場合、一方の側が自分の直観と常識に基づいて、他方の側の直観と常識を一方的に間違っていると主張することに説得力を持たせるのは難しい。

たぶん、人間の心理についての直観と常識がどのようなときに間違いうるものかについても、また僕たちの直観と常識に基づいてだが、ある程度のガイドラインを考えることができるだろう。例えば、ある人が侮辱されたと感じるときや、自分が好きなものが批判されていると感じるとき、あるいは自分が好きなものが取り上げられそうだと感じたときは、間違えやすいだろう。だから、ポルノ規制の議論において、ポルノ愛好者の判断は自己欺瞞に陥っている可能性がそれなりにある。

しかし、他方で、人が嫌悪感を感じているものについても、人の直感や常識は間違えやすい。そして、ポルノに対して「生理的に」嫌悪感を示す人々は少なくないので、ポルノ規制派だって嫌悪感からの欺瞞に陥っている人が含まれている可能性がそれなりにある。

僕は、一般論としては先に述べたように人の心理についての直感や常識に基づく議論は正当だし、必要なことだと思う。しかし、ポルノ規制論議のように推進派にも、反対派にも欺瞞による直感や常識の誤りが予想されるような状況で、直感や常識に基づく議論をどう展開するのかは相当に難しい、とも思わざるをえない。

『キャサリン・マッキノンと語る』97頁のグラフ

ポルノ・売春問題研究会『キャサリン・マッキノンと語る』97頁に次のグラフがある:

写真にうつせなかった部分を補足しておくと、右下に「(資料出典:警察庁犯罪白書』各年度版)」という出典情報があり、右上にグラフ凡例として棒グラフは「ビデ倫受審作品数」、白丸の折れ線グラフは「暴力的性犯罪指数」、黒丸の折れ線グラフは「一般的暴力犯罪指数」と書かれている。

そして、このグラフを「図1」として参照しながら、次の議論が展開されている(公正を期すため多めに引用する):

他のすべての国と同じく、日本においても、ポルノグラフィの擁護者たちは、ポルノグラフィの普及と性犯罪との間に相関関係はない、むしろ、ポルノグラフィはカタルシス効果を持つので性犯罪の防止に役立つと主張する。しかし、日本でのアダルトビデオの普及(ビデオ倫理審査会で受審したビデオタイトル数を参考にしている)と暴力的性犯罪(強姦および強制わいせつ)の認知件数との関係をグラフにすると、両者の間に明らかな相関関係があることがわかる(図1参照)。図1は、アダルトビデオが普及し始める一九八〇年代半ばまでは、暴力的性犯罪が一般の暴力犯罪(暴行・傷害の認知件数の合計)とともに減少していたのに対し、一九八〇年代半ば以降、明らかに暴力的性犯罪の減少傾向が弱まり、逆に一九八〇年末あたりからはっきりとした増大傾向に転じたことを示している。

まっさきに指摘せざるをえないことだが、この議論を文字通りに読み、提示されているグラフと照らし合わせると、「日本でのアダルトビデオの普及…と暴力的性犯罪…の認知件数との関係をグラフにすると、両者の間に明らかな相関関係があることがわかる」というのは、間違っている。「アダルトビデオの普及」とは棒グラフのことで、「暴力的性犯罪の認知件数」とは白丸の折れ線グラフのことだが、この二つにはどうみても「明らかな」相関関係はない。

たぶん、ここでポルノ・売春問題研究会が言いたいことは「図1は、アダルトビデオが普及し始める一九八〇年代半ばまでは…」以降の内容で、その内容は間違っているとはいえないとは思うが、それはそれとして「…両者の間に明らかな相関関係があることがわかる」は間違っているとしかいいようがない。


さて、「図1は、アダルトビデオが普及し始める一九八〇年代半ばまでは…」の部分は間違ってはいないが、しかし、これがポルノの普及が性犯罪の増加原因になっているという説得的な資料といえるだろうか?

いろいろと突っ込みどころはあるが、例えば、「暴力的性犯罪指数」(a)と「一般的暴力犯罪指数」(b)の比(a/b)のグラフを想像してみると、それはビデ倫受審作品数とそれなりの相関関係があるだろうと思える。しかし、それは実際にはプロットされていないのでなんとも判断が付きにくいものの、たぶん年とともに単調増加している二つのグラフであれば、だいたい何と何の間でも見出せる程度の相関関係ではなかろうかと思える。

*1:マッキノンが、自分たちは「直観と常識」に頼っていると自ら認めているわけではない。しかし、マッキノンが『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』で展開している議論は、それがせめて直観や常識に基礎を置いているのだと考えなければ、ほとんど無根拠な個人的な思い込みといわざるをえないがろう。