2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

道徳の実在性

実在論の基準は二つあるといってよいだろう: 命題の真偽に認識超越的に決まる - つまり、「〜が正しいと考える(思う/認識する/感じる)」ということと、「〜が正しい」ということが異なる 認識超越的な存在者がある - つまり、「〜が存在すると考える」と…

嘘をつくことは道徳的に悪いことか?

初期仏教典は、嘘をつくことを強く戒めている。ただ、その根拠は示されていないか、示されているとすれば「めぐりめぐって自分の身を滅ぼす」というのが中心のように思える。もし後者であるとすれば、それは、利己的な、そして、ときには説得力に欠ける根拠…

ドゥウォーキン『法の帝国』

読み直した。ほとんどの部分を誤解していたというわけではないと思うが、僕がドゥウォーキンに賛成できないように感じていたほとんど部分を、彼は先回りして論駁を加えていた。 さて、ドゥウォーキンのいう原理と政策の違いが分かりにくい(『権利論』などを…

直接実在論(追記)

例えば、ある人が財布をベッドの下に落として、箒の柄でその財布を突いてベッドの反対側に弾き飛ばすとする。ここで、「その人が動かしているのは『ほんとうは』箒の柄なのであって、財布ではない」とか、「いや、『ほんとうに』財布を動かしているのだ」と…

直接実在論

直接実在論(ないしは、「自然な実在論」)というが、どちらかといえば、存在論というよりも認識論の一説。僕なりに定式化すると、「あらゆる種類の感覚に対して『認識における同一性判定と存在における同一性判定が必然的に一致する』領域があるなどという…

主観的・客観的

「主観的」と「客観的」という言葉は、多義的すぎて使いにくい。とりあえず、思いつく限り: 「心理的」と「非心理的」*1 「属人的」と「非属人的」*2 「真理値が定まらない(あるいは規約の問題)」と「真理値が定まる」 「意見が収束しない」と「意見が収…

宗教について評価している面

何かやたらと宗教を叩いているかのような、というか、実際に叩いている文章が続いたので、僕が宗教を肯定的に評価している面もある、ということも書こうと思う。ただし、僕は「宗教」という枠組みそのもの、全てあるいはほとんど全ての宗教に共通しているも…

動物愛護と優生学

ナチスの動物愛護政策には、たまに注目があつまる。すでにこういう分析があったように思うが、ナチスの「博愛的な」動物愛護政策と「残虐な」優生学的なホロコースト正当化は、べつに矛盾するものではなく、ある見方からは*1、どちらかといえば一貫したもの…

グールド『神と科学は共存できるか?』*1についての覚書

グールドが、結局、NOMAが広く受け入れられている見解だとしているのかどうか、よく分からない。グールドの言っていることは、「科学・宗教それぞれの指導的な立場の人々に広く受け入れられている見解」ということだと思うが(これ自体も疑問だが*1)、それ…

「科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか」の一部再論

道徳的判断(あるいは道徳的推論、道徳的議論)をいうものが、弱い意味でよいから「合理的」なんだとしましょう。例えば、Aさんは「基本的には、嘘をつくよりは、つかないほうが良い」という道徳観を持っていて、それなのに、誰の利害にも関わらない場面で、…

道徳の外在主義

安藤馨『統治と公理』*1を読み直す(いま途中)。読み返しての最大の疑問点は、道徳の外在主義的実在論なんて、説得力があるのだろうか、というものだ。 内在主義の実在論者は、道徳的信念と行為との間に何らかの内的連関が存在するという考え−すなわち、道…

「認知的価値」について・道徳についての合理的議論の可能性について

米国の哲学者ヒラリー・パトナムは、道徳的な議論の合理性についての擁護の文脈で、科学における「認知的価値」について論じる: 古典的プラグマティストであるパース、ジェームズ、デューイ、ミードはすべて、価値と規範性は経験のすべてに浸透していると主…

「大晦日には十円玉は電気を通さない」

「十円玉」は自然科学に完全に還元できる言葉ではないが、「大晦日には十円玉は電気を通さない」という主張が事実であることは、自然科学の知見からみてかなりありそうにない。それとも、「『十円玉』という用語は、法的な意味、経済的な意味、社会学的な意…

抽象化

パトナム『心・身体・世界』を読み返した*1。「唯物論的デカルト主義」をとると、心を物理学にをどう還元するのか分からなくなる。パトナムの記述から離れるが、ここで問題となっている還元とは、次のようなものだ: 私たちが「心」について日常的に考え、表…