自然の斉一性と真理の対応説

自然の斉一性という考えは、真理の対応説を内包しているように思う。

仮に、真理を「実証された理論」あるいは「実証的な研究の極限において到達する理論」によって定義するとする。そうすると、宇宙の地平面より向こうの事象については、真も偽もなく、それについてあれこれと語ることはフィクションを語っているのと同じであり、私たちの宇宙と同じような宇宙が広がっていると考えようと、クトゥルフ神話の神々が愉快な饗宴を開いていると考えようと「科学的には同じ」ということになるが、自然の斉一性というのはこれを拒絶する考えなのではないか?

はっきり考えがまとまらないが、真理を「実証された理論」あるいは「実証的な研究の極限において到達する理論」によって定義すると、地球5分前創造説でさえ、拒絶できなさそうに思う。自然の斉一性というのは、まさにこれを拒絶する考えだ。

技巧的には、自然の斉一性を、例えば、「実証的な研究の範囲において、自然法則は一定であり、その自然法則で説明される差異を除き、自然の事物はおおむね一様に分布している」といったように定義しなおすことによって、この衝突を避けることはできるかもしれない。しかし、このとき「実証的な研究」の「実証的な」の意味にあまりにも多くのものがかかりすぎており、自然の斉一性というか、たぶん「自然」そのものがそれによって定義されることになるのではないか。