ドゥウォーキン『法の帝国』

読み直した。ほとんどの部分を誤解していたというわけではないと思うが、僕がドゥウォーキンに賛成できないように感じていたほとんど部分を、彼は先回りして論駁を加えていた。


さて、ドゥウォーキンのいう原理と政策の違いが分かりにくい(『権利論』などを読めば、より理解できるかもしれないが)。たぶん、これは、ドゥウォーキンは(しぶしぶ?)功利主義を正義論としてそれなりに適格なものとして扱いつつも、じつはまったく見込みのない正議論だとみなしていること、そして僕はそうみなしていないことに由来している。

義務論的な正議論に立てば、正議論上の道徳的権利を与える原理と、功利主義的(あるいは厚生主義的)な政策は、まったく別のものだといえる。しかし、功利主義を正議論として前提すれば、あるいは功利計算を正義の原理として採用している社会においては、これは(ほとんど?)同じものになる。

ドゥウォーキンはいくつも政策の実例を出して自分の述べている「政策」という概念の輪郭を暗黙に、あるいは範例によって示そうとしているが、どれも功利主義的には原理であって、しかもその点についてのエクスキューズがほとんどない(8章で論じられるが)。どうも、『法の帝国』の読者は義務論的な正議論にコミットしている、と前提されているかと思える。

ドゥウォーキンとしては、議会は、(1)正義の原理の議論のフォーラムとしての機能と、(2)市民の福利厚生の向上のための委員会としての機能を二つ持っている、ということになるのだろう。そして、繰り返しになるが、功利主義的には(少なくとも、厚生主義的には)これらは同じものなのだ。


これに関連して、二点。

まず、パターナリズム。日本法のパターナリズムの根拠と限界については、功利主義的な視点を抜きにして考えることはできないのではないだろうか。もし、功利主義を正義の唯一の原理として日本社会が選択しているのではなくとも、少なくともパターナリズムの根拠と限界について選択しているのであれば、それは正義の原理として選択しているのではないだろうか。いや、それでも、そのパターナリズム功利主義的側面は政策の問題であって、原理の問題としては権利を侵害しているか否かである、つまり政策と原理が衝突しているということだろうか?

次に、「原理の共同体」の議論は、日本の刑法典が、外国人が外国で行った犯罪についても刑罰を科していることを、正当化できそうにない。これは、どんな遵法責務論を持ってきても(自然法論や実質的な正義論によらないかぎり)、遵法責務を正当化不能だろうから、法はときには遵法責務が正当化不能なサンクションを定めているというほかないだろう。

ドゥウォーキンの「原理の共同体」の議論を維持しようと思えば、外国人による国外犯は、原理の問題ではなく政策の問題であると割り切ることになりそうだ。少なくとも、共同体メンバーの権利の保護が問題になっているわけではないので。そうすると、その議論は、米軍がイラクで捕虜の拷問を行うような場合にも当てはまることになる。これは、少なくともドゥウォーキンのいう法の原理の問題、正義の問題ではなく、議会と行政府が国民の福利向上のために自由に選択できるということになるだろう。これは、なにやら釈然としない。