正義と善・法と道徳・道徳実在論

気づいてみれば当然のことだが、僕が道徳実在論固執する理由は、僕が現代リベラリズムの基本的な方針である正義と善の分離、ドゥウォーキンのような法と道徳の分離などに懐疑的であることとつながっている。

正義と善の分離、または法と道徳の分離を、何か「本質的な」ものとして認めるならば、民主主義社会における政策議論において道徳的選択を迫られていることを理由に、個人道徳を含めた道徳実在論に魅力を感じる必要はない。政策議論に関係があるのは正義または法だ、と割り切れば良いのだから。

逆に、個人道徳を含めた道徳実在論を擁護するのであれば、正義と善の分離または法と道徳の分離には、あまり魅力はない。むしろ、なぜ、実在的な個人道徳が政策議論から排除されなくてはならないのか疑問がでることになる。

僕の意見としては、正義について純粋に手続き的な規範だけの議論ができるとは思えないし、また正義について実質的に価値の議論ができるのであれば、個人道徳においても同様にすることができないという理由があるようには思えない。そして、ドゥウォーキンの議論に乗っても、法と道徳は完全には分離できないどころか、あまりにも密接に絡み合ってしまうだろうと思う。

さて、逆説的ながら、個人道徳を含めた道徳実在論に立てば、その視点から、より素直に、また非形而上学的に、正義と善の区別、法と道徳の区別を擁護することができる。政策的に一定の規範を強制することは個人の自律を損なうので、正義や法の議論においては、それを正当化するだけのより慎重な顧慮、より重大な理由が必要である、といえば良いのだ*1

*1:法に自律を保証する、拡張する、支援するという側面も無視できないが。