2008-11-01から1ヶ月間の記事一覧
分析哲学の内容は多様だが、存在論であろうと、メタ倫理学であろうと、数学の哲学であろうと、自然言語の意味論を自然主義的に*1構築するという大きなプロジェクトとの関わりを意識しないと意味が分からなくなる。それは、自然言語の意味論を自然主義的に構…
ギリシア教父の時代以来、キリスト教神学には理性による知識と啓示による知識の二項対立がある。ユダヤ教が、キリスト教、そしてイスラム教や(一部の?)教派神道と同じく「啓示宗教」と呼ばれるように、啓示による知識というアイデアは、キリスト教独自の…
パトナムの自然な実在論とは、「私に見えている世界」と「ほんとうにある世界」を区別する必要がない、というよりも、とくに理由がないのであれば区別する必要がない、という立場ではないかと思う(というか、そうだとすれば、理解できる)。中庭に横倒しに…
多くの国民が違法(不適法)だと考えていることはその大部分が実際に違法なのであり、多くの国民が合法(適法)だと考えていることはその大部分が実際に合法なのである。そうでなければ、国民の遵法責務を肯定しようがないように思える。むろん、国民の遵法…
パトナムの意味の外在説が良く理解できている自信はないが、どうも、ある意味ではフレーゲやヴィドゲンシュタインより後退しているのではないかと思う*1。フレーゲやヴィドゲンシュタイン*2の議論にしたがえば、文の意味は端的に外在的である。フレーゲによ…
功利主義への批判に、サバイバル・ロッタリーがある。しかし、サバイバル・ロッタリーにせよ、他の功利主義への批判となる思考実験にせよ、どれもこれも現在の僕たちからはあまりにかけ離れたメンタリティを持つ人々を想定した議論になっている。快楽殺人者…
偉大なるカントやその他の人々に抗して、規範の知識とは経験的知識であり、それに反すれば自分にとって悪いことが起こるという予測である、という考え方にここ数日魅力を感じている。つまり、「殺人が悪いのは、それを行えば警察に捕まるからだ」*1という類…
デカルトたち合理主義者にとって、思考の評価基準は、明晰さと自明性であった。これは、思考の内在的な性質であって、その思考をしている本人には直接分かるし、本人以外には、少なくとも本人のようには直接知ることができない。心の中の像が、まるで焦点の…
断る必要もないけど、僕の書いていることを信用しないように。この雑記は「思いついたこと」の記録として書いているので。
僕は、やはり、いわゆる主義としての「相対主義」をあまり支持する気にはなれない。たしかに、事実として、いろいろと相対的なものはある。富士山はエベレストよりも低いが、大雪山よりも低くない。ここに相対性があるが、しかし、これが何か驚くべきような…
「オレは、自分の意見をはっきりと主張するが、間違っていると分かったときには、きちんと訂正して、謝罪する」と積極的に表明している人が、本当に訂正や謝罪をしたことは、ほとんど見たことない。
ポパーの反証主義は、検証の全体性、観察の理論負荷性によって否定されるといわれる。これに対して、ポパーは観察の理論負荷性の認めていると再反論される。さて、ポパーはたしかに観察の理論負荷性を認めているが、その解決をどこで実験条件や背景理論への…
法学方法論には、論理(ないしは論理学)を敵視するような議論もある。しかし、「論理」の概念をどのくらい広く取るかにもよるが、「論理」の概念を十分に広くとれば、論理や論理学に反対する理由はよく分からない。現代論理学は、古典論理にこだわっている…
自分の信念が常に間違っていないと考えている人は、狂人である。つまり、「自分が持っている信念が全て正しい」という一般的なメタ信念を持っている人は、正気だとは思えない。しかし、自分が持っている個々の信念のどれについても「その信念は正しい」とい…
論理とは何か? という前に、「それは非論理的だ!」という非難について考えてみよう。 何らかの主張に対して、それが非論理的だという非難は頻繁に行われるが*1、非論理的だという非難の正当だと思える使い方には二つある。一つは、ある主張が矛盾を起こし…