アンドロイドの選挙権
原形質から作られたアンドロイド(それにはこれからまさに取り付けられようとしている言語中枢を除くすべてのものが備えられている)が赤とはどのようなものであるかを知っているかどうか、われわれにはまったくわからないということは、主観性の本性をめぐる科学的ないし哲学的困惑に陥っていることを告白することではない。それはだた、ほぼ人間に近い顔をしたもの−それはいつの日かわれわれの会話の相手となるかもしれないと思わせる−は通常「感情」をもっていると考えられるが、それらがどのようにして出来上がったかについて余りにも知りすぎているような場合には、われわれはそれらを会話の潜在的相手と考えることさえいやがるかもしれない、ということにすぎないのである。
リチャード・ローティ『哲学と自然の鏡』206項*1
この内容を直接敷衍するものではないが、ちょっと、SF的な問題を考えてみた。
富裕層はかなり容易にアンドロイドを購入することができ、かつ、購入するアンドロイドについて政策判断についての強い傾向「経済発展最重視」とか「環境保全最重視」とか*2、もっと露骨には「自民党支持」とか「民主党支持」とか、そういった政策的判断の傾向のプリセットをオーダーメードができるようになった場合に、僕たちは、アンドロイドに選挙権を与えることを選択するだろうか? そういうことになれば、金さえあれば、いくらでも票を「水増し」できることになるだが。
あるいは、政府が「安全上の措置」として、アンドロイドに一定の政治的性向をプリセットできるとしたら?
これは、もう、アンドロイドに「こころ」があるかどうかということとは、かなり独立な話だ。アンドロイドは、僕たちより賢いかもしれないし、情感豊かかもしれない。アンドロイドは、善き隣人たりえるし、素晴らしい詩人でもありえる。アンドロイドに恋をしようと、アンドロイドが恋をしようと、ひとまずそれはそれで構わない。しかし、選挙権は?
「人権」という用語はいろいろと面倒だが、ある憲法理論をとれば、憲法上の「人権」の中核は選挙権・政治参加をする自由にある。まぁ、そういった憲法論はひとまずおくとしても、民主主義の政体において選挙権を与えないということは、どれほどその外の権利を保障しようと、二級市民として扱っていることに違いはない。
昨日、アンドロイドを二級市民として扱う政体と、それを差別として糾弾する政体が戦争をする、リアル・ロボット*3・アニメをしばらく妄想して、寝た。