グールド『神と科学は共存できるか?』*1についての覚書

  1. グールドが、結局、NOMAが広く受け入れられている見解だとしているのかどうか、よく分からない。グールドの言っていることは、「科学・宗教それぞれの指導的な立場の人々に広く受け入れられている見解」ということだと思うが(これ自体も疑問だが*1)、それは普通の意味で「広く受け入れられている見解」、つまり「常識的な見解」であることと別の話では? また、教皇が公式見解で何を言っていようと関係ないとまではいわないが、むしろ、教皇庁が実際にやっていることや、一般のカトリック信者が何を信じているかのほうが、カトリックの現実のあり方なのでは?
  2. グールドは、科学と数学の教導権(マジステリウム)の関係をどう捉えているのだろうか。僕は、科学と数学の教導権は別のものだと思うし、グールドとて否定はできないだろうと思うが*2、では、数学なしの物理学というのを首尾よく構築でき、それこそが真の物理学であって、物理学研究者はそれを目指さなくてはならない、ということになるのだろうか。科学と宗教(ないしは道徳)の教導権が別だからそれらは分離できるし、するべきだというのであれば、数学と物理学についても、教導権が別だからそれらは分離できるし、するべきだと言わなくてはならないだろう。しかし、これは、少なくともウンザリするような物理学観ではないだろうか*3
  3. グールドの宗教や道徳の見方は、いわば「演繹主義」*4的すぎる見方ではないかと思う。つまり、究極の価値(あるいは究極の目的、究極の原理、究極の規範)を探求するのが宗教という営みの、そして道徳という営み一般の目的であり、一度、その究極の価値を確定しさえすれば、それから個々の状況における、個々の規範は演繹的に導き出せる、という構図を想定しているように思う*5
    • しかし、多くの宗教はそういうった構図のもとで探求しているといってもよいのかもしれないが(これ自体も疑問だが*6)、しかし、少なくとも世俗道徳における探求とは、必ずしもそういったものではない。べつに多元的な道徳的諸価値の競合や葛藤を認めてもかまわないし、そもそも抽象的な価値なるものを一切問題にせず、すべて現実や仮想の具体的な事例のアナロジーで話を進めてもかまわないのである。
    • また、仮に全ての宗教や道徳がそういう「演繹主義」、つまり全ての規範が演繹できる究極の価値の探求という構図をとっているとしても、宗教や道徳という営みが行っているのは、その究極の価値そのもの、ないしはその充実した内容の探求なのであって、確定した究極の価値から演繹だけということにはならない。そして、究極的な価値の探求はデュエム=クワイン・テーゼのように全体論的に行われるのだから*7、宗教や道徳の中核部分と科学の中核部分が別だということは宗教や道徳と科学の「境界面」では相互干渉があることを否定できないし、「境界面」では相互干渉があることを認めてしまえば、究極の価値の探求そのものへの干渉を認めることになる。

『神と科学は共存できるか?』が問題にしているのは、科学と宗教(ないしは道徳)の教導権(マジステリウム)の分離、そして「究極の価値」の所在や内容の科学からの分離だろう。しかし、前者を肯定したとしても、数学と物理学の例が示すように、それぞれの営みが分離できることにも、分離しなくてはならないことにも必ずしもならない。また、後者を肯定しても、「究極の価値」の探求が科学から分離できることにも、分離しなくてはならないことにもならない。

*1:グールドのNOMAの規定だと、なんらかの形の理神論しかキリスト教には残されていないのではないかという疑問がでる(少なくともグールドは理神論の方向を示唆してはいる)。ローマ教皇は理神論者なのだろうか?

*2:ご存命ではないので、比喩表現だが。

*3:数学なしの物理学が構築できなくとも、物理学なしの数学は構築できる」という反論がでるかもしれない。しかし、それは、少なくとも、NOMAの相互不干渉のアナロジーとしては失敗している。

*4:詳しくは、前のエントリで説明した。

*5:過度な単純化になるが、つぎのようにいうこともできる。つまり、グールドは、いったん究極の価値を確定した後にそこから規範を演繹する場面だけを、あるいは、ほぼそれだけを考えているようだ。しかし、その究極の価値を帰納する局面について考えていないように思う。後者もまた、あるいは後者こそが、宗教や道徳の営みの大きな部分だと、僕は思うのだが。

*6:例えば、仏教においては「悟り」あるいは「涅槃」が究極の価値、砂漠の一神教においては「神への献身」が究極の価値といえるかもしれない。しかし、神社神道において「究極の価値」とは何だろう? そういった「究極の価値」をクレームしなければ、宗教とは呼べないのだろうか。

*7:もし、究極の価値の探求ということをやるのであれば、どの宗教や道徳においてもそうなるだろうと僕はそう考えている。