2007-01-01から1年間の記事一覧

存在論

ハイデガーを読みたくなってきた。たしかハイデガーは、「存在するとはどういうことか?」を問うのが「存在論」だ、といっていたと思う。現代英米哲学の「存在論」や「存在論的論証」と呼ばれる議論は、どちらかといえば「何が存在するのか?」という議論に…

有意味性・実在性・検証可能性

現代英米哲学における、意味論と存在論の絡み合いは、難しい。例えば、キリスト教の教理について「『神』という語は、天地を創造した者を意味する。しかし、神は存在しない」と主張することは可能なように思える。これは、概念分析・言語分析的な主張と、存…

クオリア

日本の俗流クオリア論を撃破する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~僕もいろいろと誤解していた点を明快に説明してくれている。僕なりに、すごく乱暴に一言で同じようなことをいうとすれば、逆転クオリアの思考実験は機能主義に反駁するためにある。 …

物理領域の因果的閉包性

「物理領域の因果的閉包性」という言葉が、最近すごくお気に入りだったが、ちょっと疑問が出てきている。 「物理領域の因果的閉包性」が「質量・エネルギー保存の法則」の帰結なのか、むしろ前提なのか、と問われると少し戸惑ってしまうが、たぶん、「質量・…

『機動新世紀ガンダムX』

『機動新世紀ガンダムX』を最終話まで観た。周囲の評価とは違って、僕はかなり面白かった。

『あさっての方向。』と『ぼくらの』

『あさっての方向。』(アニメ版)を3話まで観た。全然期待していなかったのに、かなり面白い。道端の祠に「大人になりたい」と願掛けした小学生の「五百川からだ」は体が大人に成長してしまって、その代償かのように大人の「野上椒子」は体が子どもサイズに縮…

脳の幾何学的機能

よく考えてみれば、僕たちの脳が、少なくとも二次元の非ユークリッド空間を認識できる機能を持っていることに疑いはない。 例えば、トラの模様はトラが体を動かすと変化する。僕たちは、正しく「トラの体の表面」という二次元空間が変形すること、模様がその…

刑法体系

昨日書いたように、僕自身は、行為無価値論の支持者だ。ただ、行為無価値論だろうと、法益保護の保護を刑法の目的とし、法益の選択・重みづけにおいてリベラルな価値を尊重し、また「社会的相当性」の一言で「ナタで牛を切るような」議論だけで終わりとせず…

行為無価値論と偶然防衛・偶然避難

偶然防衛・偶然避難において、無罪の結論をとることは行為無価値論においても可能なのではないかと思う。 というのは、法規範というものは、個々の具体的状況において、規範を基礎付ける事実の評価として、現れるものだと考えるからだ。例えば、次のような状…

結果無価値論の「過失」

よく考えてみれば、結果無価値論の過失概念の中心にある予見可能性は、心理の内容ではないのではないかと思う。まず、予見可能性は意識の内容ではない。何か結果の予見可能性を意識しているのならば、それはまさに予見そのものだ。だから、意識の内容として…

行為無価値論と結果無価値論

僕は、結果無価値論の体系にしたがっても、未遂論において行為者の心理内容を検討しなければ「危険」を認定できないだろう、過失の認定において現実には行為無価値論の相当因果関係の折衷説と同じものを評価しているのだろうと思うが、結果無価値論の言い回…

デイヴィドソンの「三角測量」

デイヴィドソンの「三角測量」の議論は、かなり乱暴に要約すれば、「真」を定義するのは客観世界だが、客観世界を定義するのは他者だ、というものだろう。これは、真理とは合意である、という説とどこが違うのだろうか? たぶん、違うだろう。合意についての…

カント

いまカントの書籍が手元にないのではげしくうろ覚えだが、カントは、自分の才能を伸ばすことを不完全義務としてあげていたように思う。しかし、ここでいう「才能」とはいったいどんな才能なんだろう。カントによれば、自分の楽しみのために絵を描くとか、他…

遵法責務

遵法責務については、かなり不勉強なので、適当に思いついたことを書く。遵法責務とは、道徳的義務の一つだといわれる。そこでいう「道徳的義務」というのは、いったいどういうことだろうか? 道徳慣習上の義務のことなのだろうか? しかし、そもそも人は道…

聖書解釈

ドーキンス『神は妄想である』の中で、ひとつ、穏健で伝統的なキリスト教徒が使えそうな反論を思いついた(ドーキンスは原理主義者を中心的な攻撃対象においているので、その意味では関係が薄いが)。これは、比較的、プロテスタントよりも、カトリックのほう…

数学的プラトニズム

ドーキンス『神は妄想である』を読んでいて、数学的プラトニズムの問題が、少し自分のなかで整理できた。なぜ、量子力学や相対性理論のような高度な物理学は、非ユークリッド幾何学のような高度な数学で表現できるのか?ニュートン力学をユークリッド幾何学…

メレオロジーとしての宇宙

空間の全体を無限の点の集合とみなして、その中を運動する粒子のイメージで自然をとらえるよりも、空間の全体をメレオロジーによるブール束、ただしどの元x,y(x

ドーキンス『神は妄想である』

僕は、ある種の唯物論に傾いているから、「神は存在しない」ということは同意できる。また、有神論者でなくとも、道徳的でありえることに同意する。しかし、ドーキンス自身も先回りして書いているが、「なぜ、そこまで執拗に宗教を攻撃するのか?」というこ…

実数の形式体系

ウィキペディアの「0.999...」の項が話題になったことがあるが、これって形式体系としてはどうなるんだろう? 実数の形式体系というのを、「Xi」という変項と「ai」という定項だけを使って定義するなら問題はない。でも、その形式体系は、「0.999...」に相当…

位相

やっと位相(の初歩)がわかったような気がする。ハサミで切っちゃダメなんだよ。糊でつけてもいいけど。

デイヴィドソンと指示

デイヴィドソンが自分の理論は充足という概念を必要とするが、単純な指示を必要とはしないことを力説する意図は、正直言ってまだうまく飲み込めない。しかし、彼が「概念枠組み」というものを否定することから、彼の理論が指示についての困難な問題を回避し…

哲学の落とし穴

17世紀のデカルトから20世紀の半ばまで、多くの西洋哲学者が陥ってしまった落とし穴があるように思う。それは、マッハ主義に顕著なのだが、理論や実践が要請するために想定しなければならない存在者は、「仮設的」存在者であり、したがって非実在的である、…

合理性

たぶん、僕は知識の因果説、認識的正当化の外在説を支持していることになると思う。しかし、知識の得るための因果関係のあるタイプや、(ソウザの徳認識論のような)知識を得る能力や性質が知識の正当性そのものであるとか、あまつさえ人間の合理性の本性であ…

ヨーロッパの伝統

たぶん、どこかで書いたことだが、西洋哲学のある伝統、言語と理性を根拠に人間と動物の圧倒的な非連続性を強調するという伝統だけは、僕には不思議なものに見える。もし犬がしゃべられるとすればこう言うだろう、という想像を行うことは、その前件が事実に…

デイヴィドソン:信念と合理性(2)

仮に、僕にある人が「私は、食パンが太陽の左前方を素因数分解している、と信じている」と言ったとしよう。僕は、この言明を理解することができない。「食パンが太陽の左前方を素因数分解している」とはどういうことなのか、さっぱり分からない。従って、彼…

合理性

人々の意見が異なっている場合でも、僕たちお互いに、相手がそれなりに合理的だと想定することができる。そして、意見が異なることを説明するのに、合理性のあり方が人によって違うと考える必要はない。そうではなくて、たんに知っている事実や注目している…

デイヴィドソン:信念と合理性(1)

デイヴィドソンは、言語コミュニケーションができない対象に信念を帰属させることはできないという。僕には、これは極端すぎる主張のように思える。ただ、こういうことは許されるだろうと思う。ある対象が言葉をしゃべることが想像できないような場合、その…

僕はなぜこの僕なのか?

これを告白するのはものすごく羞恥心を感じてしまうのだが、「僕はなぜこの僕なのか?」という誰もが思いつくような問い、いかにも思春期的な問いが、僕の哲学への関心をずっと引っ張ってきた。そして、この問いにやっと答えが出たような気がするので、その…

キリスト教

最初期のキリスト教徒*1が、「賢さ」を道徳的性質の一つに数え上げなかったことは、当然かもしれない。ニーチェの議論も興味深いが、たぶんそれとは違った意味で、彼らが知的卓越性を道徳的性質に数え挙げなかったことには、彼らなりの理由があるように思う…

道徳的性質

そこで、マッキーにとって重要な問いとは、言語哲学的な問いではなく存在論的な問い、すなわち「実在的で客観的な道徳的性質は存在するか」という問いであり、それに対する彼の答えは「存在しない」である。この結論に至る彼の中心的な論証は、彼が「奇妙さ…