「認知的価値」について・道徳についての合理的議論の可能性について

米国の哲学者ヒラリー・パトナムは、道徳的な議論の合理性についての擁護の文脈で、科学における「認知的価値」について論じる:

古典的プラグマティストであるパース、ジェームズ、デューイ、ミードはすべて、価値と規範性は経験のすべてに浸透していると主張しました。科学哲学においてこの観点が含意していたことは、規範的判断は科学の実践自体にとって本質的だということです。これらプラグマティズムの哲学者たちが言及したのは、「道徳的」ないし「倫理的」と呼ばれるような種類の規範的判断だけではありませんでした。「首尾一貫性」、「尤もらしさ」、「理に適っていること」、「単純さ」の判断、また、ディラックがそう呼んだことで有名な、仮説の美しさの判断、それらのすべてが、チャールズ・パースの意味での規範的判断、推理の場合における「何が存在してしかるべきなのか」の判断、なのです。


パトナム『事実/価値二分法の崩壊』*135項

ちょうどぴったりの引用はできないが、パトナムがこの『事実/価値二分法の崩壊』で「認知的価値」をもって論じていることは、「科学が客観的だ」という考えを維持したいのであれば、「価値判断に導かれた判断も客観的たりえる」ということを維持しなくてはならない、ということだと要約してよいだろうと思う。

さて、しかし、合理的な議論において価値判断を行うことと、価値そのものについて合理的な議論ができることは、いちおう別の問題である*2。つまり、僕はパトナムのいう科学における認知的価値をおおざっぱに「アドホック過ぎないか?」という判断と「その条件による区分はもっともらしいか?」という判断で代表させてもかまわないだろうと思うが*3、ある主張がアドホック過ぎる、ある条件による区分がもっともらしい、という判断ができることと、アドホック過ぎるとはどういうことかや、もっともらしい条件とは何かということが、合理的に議論できるかはいちおう別の話である。

例えば、「大晦日に銅は伝導性を失う」という主張の「大晦日」という条件は、かなりもっともらしくない。「94±0.5℃の温度で銅は伝導性を失う」という主張の「94±0.5℃の温度」という条件は、少なくとも「大晦日」にくらべると、いくらかもっともらしい。これが合金の含有率の条件についてであれば、さらにもっともらしいだろう。これは、「94±0.5℃の温度」であれば電子がどう動くかや、そこで提示された含有率であれば電子がどう動くかということが、まったく説明できなくとも(説明できる前であっても)、やはり、もっともらしいかどうかという判断が働く。しかし、他方で、そういった判断が働くことと、改めて「では、『もっともらしい条件』の定義は?」と質問されて答えられるかどうかというのは、別の問題だ。

したがって、認知的価値が科学の前提になっているということから、「××は残酷なことだ」という道徳的判断が合理的たりえることを擁護できたとしても、「『残酷』というのはどういう意味か?」という議論が合理的たりえることまでは擁護できるかどうかは、分からない。これは、道徳についての合理的議論の可能性について、ある面では有利に、ある面では不利にはたらく。不利にはたらく面は、繰り返しになるが、「『残酷』というのはどういう意味か?」といった種類の議論が合理的たりえることを、このアナロジー*4からは導けないということ。

有利に働く点は、「××は残酷なことだ」という道徳的判断が合理的たりえるためには、「『残酷』というのはどういう意味か?」という議論が合理的たりえることを前提する必要はないことである。もし、「『残酷』というのはどういう意味か?」という議論が合理的であることが「××は残酷なことだ」という道徳的判断の合理性の前提条件であることが、「合理性」また「客観性」という概念から要請されるのであれば、科学もまた「『アドホック』という言葉はどういう意味か?」「『もっともらしい条件』の定義は?」という議論を合理的に行えることを示せなければ、科学という営みが合理的であるとか、客観的であるとかいうこともクレームできなくなるだろう。

逆に、「『アドホック』という言葉はどういう意味か?」「『もっともらしい条件』の定義は?」という議論が、合理的たりえるということを承認してしまってもよい。しかし、そうした場合、「アドホック」や「もっともらしい」の基準を抽象的に異議なく示すというものではなく、他の同様にいくらか曖昧な概念「一貫性」とか「単純さ」という概念を使用し、また部分的には多くの例示によって理解させる、というものになるだろうと思う。そして、そういう説明のような「合理性」でよいのであれば、「『残酷』というのはどういう意味か?」という議論についても合理的に行えないと考える理由はないように思う。

いずれにせよ、科学および科学哲学において「『アドホック』という言葉はどういう意味か?」「『もっともらしい条件』の定義は?」という議論に決着をつけずに、「アドホック」や「もっともらしい条件」という評価を援用しても、科学における議論が合理的ないしは客観的たりえるのならば、道徳的議論において「『残酷』というのはどういう意味か?」という議論に決着をつけずに、「××は残酷なことだ」という評価を援用しても、だからといって道徳的議論が合理的たりえない、客観的たりえないということにはならない。

*1:

事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

*2:このエントリで、僕は「客観的」と「合理的」をほとんど同じ意味で使っている。これについては、もっと整理しないといけないことがあるが、「客観的」という言葉が多義的すぎて(「合理的」という言葉は曖昧ではあるし、多義でさえあるとは思うが、その多義性は「客観的」ほどではないだろう)、手短にすることはできない。

*3:この二つの判断は、たぶん、ほとんど同じもの。

*4:正確には、「アナロジー」でないことは確かだと思うが、なんと表現してよいのか分からない。