「大晦日には十円玉は電気を通さない」

「十円玉」は自然科学に完全に還元できる言葉ではないが、「大晦日には十円玉は電気を通さない」という主張が事実であることは、自然科学の知見からみてかなりありそうにない。

それとも、「『十円玉』という用語は、法的な意味、経済的な意味、社会学的な意味を含むから、自然科学の知見からは何も言えない」といえるのだろうか? あるいは、逆に、「『十円玉』という用語は、法的な意味、経済的な意味、社会学的な意味を含めて、自然科学の用語に完全に還元できる」とでもいえるのだろうか?

もちろん、「地球の公転周期のある時点において、銅は電気を通さない」とするとかして、より自然科学的な表現にすることはできるし、やろうと思えばさらに精密化することだってできるだろうが、だからといって、「大晦日には十円玉は電気を通さない」という主張が自然科学の知見からみてかなりありそうにないことが変わるわけではない。

やはり、どう考えても、「十円玉」は自然科学に完全に還元できる言葉ではないが、「大晦日には十円玉は電気を通さない」という主張が事実であることは、自然科学の知見からみてかなりありそうにない、というほかないと思う。

同じように、ある主張で使われている語彙が、宗教的な意味を含むとか、道徳的な意味を含むからといって、それを科学的知見をもとに批判できないということはないのではないか。それとも、法的な意味、経済的な意味、社会学的な意味を含んだ語彙を使っている場合には、自然科学的な知見と関連があるが、宗教的な意味や道徳的な意味を含んだ語彙の場合はないとする理由があるのだろうか? 法的/経済的/社会学的な意味を含んだ場合と、宗教的/道徳的な意味を含んだ場合で区別する理由は、とくになさそうに僕には思える。