嘘をつくことは道徳的に悪いことか?

初期仏教典は、嘘をつくことを強く戒めている。ただ、その根拠は示されていないか、示されているとすれば「めぐりめぐって自分の身を滅ぼす」というのが中心のように思える。もし後者であるとすれば、それは、利己的な、そして、ときには説得力に欠ける根拠だと思う。例えば、さんざん悪政をひいてきた独裁者が、革命から逃走してあと一歩で好意的な同盟国に保護されるというときに、革命側の検問にあったとすれば、そこで嘘をつくことは自分の身を守ることになるだろう。そこまで極端な例ではなくとも、僕の個人的な実感としては、嘘をうまくつけない人は不便なものである。

カントも、嘘をついてはいけないという道徳規範を強硬に主張した。


現実に「嘘はついてはいけない」という規範が社会の規範としてある、という点について。それはある。あるけども、社会規範としては、あらゆる他の利益・価値・規範に優越するような絶対的なものではない。僕は、道徳規範が多元的で、ときには競合してもよい考えているので、「嘘はついてはいけない」というのが絶対的ではないからといって、それは道徳的な社会規範ではないとはいわない。しかし、「多元的です。競合します」でおわり、おしまい、というわけにもいかない。

競合するということは、例えば、病気になった子どもにこの薬は苦くないと嘘をつくときに*1、「嘘はついてはいけない」と「子どもの病気を治すべきだ」という道徳規範のどちらをどういうふうに優先させるのかという問題が提起されるということだ。社会なり、個人なりの道徳観を一貫させたいと望むならば、あるいは上の例で言えばその子どもに対して欺瞞的でありたくないと望むならば、「嘘はついてはいけない」という社会規範の根拠・条件・有効射程・重要性というものを多少は考えなくてはならない。このとき、ドゥウォーキンのいう構成的解釈が道徳に対してスタートする。


そこで、嘘をついてはいけないという道徳規範の根拠の話に戻るが、僕はカントに完全に同調するわけではないけれど、彼の議論にある程度近いかもしれない次のような根拠が、それなりに説得力があるのではないかと思う: 虚偽の情報にもとづいた判断は、十分に意志の自由が確保された判断とはいえないから、人にそのような判断をさせるべく嘘をつくことは道徳的に悪いことである。


量子論によって決定論は崩壊したということがいわれ、それはある意味ではたしかにそうなのだろうと思うが、これを自由意志論との関係で持ち出すことは疑問だ。第一に、決定論と自由意志の関係が問題となったのは、量子などよりはるかにマクロな世界での話であり、量子という非常にミクロな世界では非決定的だということがどれほど意味があるのかは分からない。第二に、「決定」が「確率」に置き換わったところで、自由意志の擁護になにか有利な点があるとは思えない。

決定論と自由意志の関係は、哲学者を悩ませ、また現代でも多くの人が気になるところだと思う。しかし、物理領域の因果的閉包性を肯定するならば、少なくとも、自由意志を司る霊魂、つまり「機械の中の幽霊」のような存在者はきっぱりと拒絶せざるをえない。そんな霊魂のような存在者が、どうやって物理的な現象である人の身体の運動を引き起こせるというのか*2。もし、引き起こせるというのであれば、なぜ目の前のボールペンを同じように動かせないのか。

自由意志を司る霊魂のような存在者は認められない。では、自由意志とは、せいぜい次のような両立主義的な理解しかできないのか。つまり、「もし、彼が望めば、こうすることはできた」とはいうことはでき、それが自由意志ではあるが、「彼は、こう望むこともできたはずだ」ということはいえない、その意味での「意志の自由」は否定せざるをえないのか? 僕は、そうは考えない。僕は、自由意志あるいは意志の自由とは、霊魂のような存在者を前提とする概念ではなく、そもそも、ある形而上学的概念やある精神的能力のことでさえなく、ほとんど端的に道徳的な概念だと考えている。

ここからは「自由意志」ではなく「意志の自由」という言葉に戻すが*3、意志の自由とは、(なるべく)正確な情報をもとに合理的な熟慮をもって行動を選択できる、という状況のことだと思う。その状況が、結局は決定論的に「そうでしかありえなかった」のかどうかは関係がない。この「合理的な熟慮」というのはある程度の精神的能力を前提するが、その能力を有していることも含め、それを正常に発揮できる状況全体のことを、意志の自由というのではないだろうか。詐欺によって取引をした人について「あの人は意志の自由を損なわれたのだ」という表現をすることは奇妙なことではないだろうし、またその意味での意志の自由は法的にも保護されているので、この意味での意志の自由の尊重は、現在の道徳慣習の構成的解釈としては妥当なものだと思う。

というわけで、意志の自由を尊重するのであれば、正確な情報を阻害された状況での判断から人は保護されるべきで、他人にそのような判断をさせることは道徳的に悪いことである。よって、嘘をつくことは道徳的に悪いことである、といえるだろう。


病気になった子どもにこの薬は苦くないと嘘をつくときの話に戻る。緊急事態ではなく、その子どもが十分に合理的な熟慮を行えるときまで待つことが可能なのであれば、そのときを待つのが望ましく、嘘をついてまで薬を飲ませることは避けるべきだ、と僕は考える*4。嘘をつくべきではないという規範を、意志の自由あるいは自律の問題に帰着させ、また意志の自由を正確な知識と合理的な熟慮の問題に帰着させることによって、この結論へのある程度の根拠を得ることができる。

もっとも、これが確定的な答えだともいえないし、子どもの成長を待つことができる場合は限られているかもしれない。これは微妙な事実判断と評価を前提として、微妙な考量が求められるので、結論としては、やはり嘘をつく害悪が上回るとも、治療の必要性のほうが上回るともいえるし、さらにほんとうはケース・バイ・ケースだが社会規範としては年齢を基準にどちらかに一律に、ないしは類型的に一律に決めておくべきだ、という議論もできる。


そもそも、そもそも意志の自由を尊重する理由はあるのか? 僕は尊重するべきだろうと考えているが、いついかなるときでも絶対的な規範であるかどうかは分からないし、あまり強い根拠も出せない。とはいえ、根拠になるかもしれないもの三つ書いておく。

第一に、すでに述べたが、現在の道徳慣習の構成的解釈としての論法。刑法の同意殺人罪や家宅侵入罪に関して、裁判例が騙されれいた場合に「真摯な同意(許諾)」がないとして(同意殺人罪ではなく)殺人罪を認めたり、家宅侵入罪を認めたりするのは、正確な知識を持つことを意志の自由の前提としているのだろう。これは現在の道徳慣習を反映しており、そのような意味での意志の自由の尊重することは、現在の道徳慣習の構成的解釈としては妥当であると思う。

第二に、道徳的直観に訴える論法*5バーチャルリアリティの中でおくる「騙された」快適な一生と、同程度に快適な「騙されていない」一生と、もしあなたがどちらでも自由に選べるならば*6、どちらを選ぶだろうか?*7 たぶん、多くの人が後者を選ぶのではないだろうか。多くの人が後者を選ぶのだとすれば、僕たちの直観として、「騙されていない」人生というのは、それだけで、そしてその分だけより望ましい、より善いものだといえるだろう。

第三に、やや超越論的な論法(カントに近い?論法)。道徳という営み、とくにここでは個人道徳という営みが、合理的で、動機付けや理由付けといった行為指導性を待っているのであれば、それは、「なるほど、自分はそう行動するべきだ」という納得へ向かっての内省と説得の営みであるととえられると思う。そのような説得は、一面ではたしかに他人の行動への介入ではあるけども、アーキテクチャによるコントロールやサンクションによる強制などと比べれば、道徳という営みはもともと人々の意思の自由の尊重を前提とした営みだといえるだろう。つまり、道徳という営みにコミットするということは、もともと人々の意思の自由の尊重にコミットしているのだと思う。

*1:じつは、子どものころに苦い薬を飲んだ記憶が、僕にはない。だから、この例は、少なくとも僕はそれほどリアリティを感じないのだけど、よく使われるし、使いやすいので使う。

*2:面白いことに、言葉をしゃべることも身体の運動だということを、ときに忘れがちになる。

*3:「自由意志」という言葉は、「自由意志で」「自由意志によって」という表現を「意志の自由が確保された状態で」という意味に解釈すればよいだろうと思っているが、自由意志を司る霊魂のような存在者を想定するかのようにミスリードするので、ちょっと問題があると僕は思っている。

*4:あまり「薬は苦くないと嘘をつく」という喩えに即応していないけど、性分化異常の場合などに有効な視点ではないだろうか。

*5:このような「直観に訴える」論法が許容可能なものなのか? 僕は、これ自体は許容されると思われる。直感的に「道徳的ではない」主張ばかりをするような理論は、それがなんであれ、それを「道徳的」とは呼ばないだろうから。問題は、直観に訴える論法が道徳的議論として許されるかどうかではなく、直観に訴えてばかりの道徳理論が合理的たりえるか、また直観にだけ支えられたような道徳理論に従うべき理由があるのか、という疑問が出てくるということだろう。

*6:前者を選べば、それがバーチャルリアリティの世界であるという記憶を、ピンポントで消してもらえることにしてもよい。技術的に可能だとは思っていないが、思考実験なので気にしない。

*7:リチャード・ノーマン『道徳の哲学者たち』38項が、この問題に触れている。安藤馨『統治と功利』もこの問題を論じていたが、ページが分からない。