主観的・客観的

「主観的」と「客観的」という言葉は、多義的すぎて使いにくい。とりあえず、思いつく限り:

  • 心理的」と「非心理的*1
  • 「属人的」と「非属人的」*2
  • 「真理値が定まらない(あるいは規約の問題)」と「真理値が定まる」
  • 「意見が収束しない」と「意見が収束する」
  • 「非認知的」と「認知的」
  • 「根拠がない」と「根拠がある」
  • 「非合理的」と「合理的」
  • 「一人称の記述」と「三人称の記述」

たぶん、このリストは、もっと増やせる。

ローティのいう「自然の鏡(としての心)」を前提とすると、これらの用法はそれなりに整合的につながっているんだけど*3、その「自然の鏡」を認めない立場に立ってしまうと、これらがどうして「主観的」「客観的」と一組の用語で呼ばれるのかわけが分からなくなる。また、このリストに含まれる用法の中には、ゼロか一かというデジタルな判断が可能なものもあるものの(「一人称の記述」と「三人称の記述」*4)、程度問題であるものもあるのに(「意見が収束しない」と「意見が収束する」)、それらが一緒くたにされてしまっている。だから、「主観的」や「客観的」という言葉は本当は使わないほうがよい、と僕は思っている。

しかし、いろいろな事情から、あるいは、ついうっかり使ってしまう。ままならない。

*1:刑法理論の「主観的」構成要件要素とかは、この類。

*2:民事訴訟法理論の既判力の「主観的」範囲とかは、この類。

*3:それでもまったく同じというわけではない。たぶん。

*4:これも、特殊な場合を考えれば、微妙なことがある。例えば、「私は〜と思う」というのは明らかに一人称の記述だが、自分のことを「○○ちゃん」と呼ぶ子どもが「○○ちゃんは、それは嫌い」というときに、これが一人称の記述なのか、三人称の記述なのかはよく分からない。