宗教について評価している面

何かやたらと宗教を叩いているかのような、というか、実際に叩いている文章が続いたので、僕が宗教を肯定的に評価している面もある、ということも書こうと思う。ただし、僕は「宗教」という枠組みそのもの、全てあるいはほとんど全ての宗教に共通しているもの(と僕が考えているもの)を評価しているわけではないし、どの宗教についても全面的に肯定的に考えているわけではないので、個別の宗教の個別の教義を取り出して、「この教義については考えさせられる」といった程度の評価になる。

あと、どの宗教についてもよく勉強しているとはいえないので、言うまでもないことだけど、ここに書いてあることを参考書のように信じてはダメです*1

ユダヤ教

キリスト教イスラム教にも引き継がれていることだけど、神への献身*2というアイデアについては考えさせられる。プラトンアリストテレスという「異教の」思想家達は、倫理を利己主義的な個人主義に還元しようとする傾向があるが、絶対の他者、絶対的に自らよりも上位にあるものに対してコミットして、それによって自らの人生を意味あるものになさしめようというアイデアについては、考えさせられる*3

また、キリスト教イスラム教においては天国での「報酬」というアイデアによって、神への献身を利己主義的な個人主義に還元してしまおうとする傾向が感じられるし、またユダヤ教でも部分的にはその傾向があるのではないかと思うけれども、少なくとも比較の問題としては、ユダヤ教において神への献身によって得られる「報酬」は非個人的なものだといってよいと思う。モーセでさえ、個人的な罪のために、約束の地に入ることは許されなかった。しかし、それでも、無報酬に、あるいはせいぜい約束の地で繁栄するという民族的・集団的な「報酬」のために、ユダヤ人は神に献身したわけだ。

もちろん、これは手放しで支持できるわけではないし、単純化もしている。具体的問題として、パレスチナ問題とシオニズムの関係を知らないわけじゃない。シオニズム反対のユダヤ人がいることも、分かっている。また、一般論として、民族という集団へのコミットメントが、レイシズムナショナリズムという問題を引き起こすことも分かっている。ただ、他の宗教にも、神への献身というアイデアが見られないわけではないが*4ユダヤ教においては、それを個人的な「報酬」と結び付けない形で、という意味で、より純粋な形で示されているのではないか、ということだ。

キリスト教

上で取り上げた「神への献身」というアイデアは、もちろんキリスト教も引き継いでいる。ただ、個人的色彩が強くなり、また天国での「報酬」というアイデアによって、僕からみれば魅力の落ちたものになっている*5。ただ、他方で、虐げられた者、弱い立場にある者への愛というものは、より直接的に表現されている。偉大であるから服従するというだけではない、何かがそこにはたしかにある。

また、これは評価しているというよりも「興味深い」という話だが、カトリック、正教、プロテスタントの関係、その歴史的経緯についてはいろいろ考えさせられる。これを言い出すとどっぷりと宗教論争になってしまうが、プロテスタントの「聖書にかえれ」というようなパッションも理解できるし、他方でその聖書のテキストもその解釈も、それら自体がキリスト教共同体の「伝統」のなかで生まれてきたものではないか、その伝統を真正面から受け入れられないと、極端な逐語霊感説に至るのは自然な流れではないかという気がする*6。しかし、これでカトリックを擁護するとしたら、フィリオクェ問題はどうするのだ、ということにもなりかねないと思う。ここには、僕が推している「道徳慣習を改善する」プロジェクトにおいても現れる、伝統を受け入れることとそれから離反することの緊張が、如実に現れているように思う。

初期仏教

はじめに断っておくけど、僕は「初期仏教は、宗教ではなく、人生哲学である」というような意見に賛成しない*7。とはいえ、いままでのように、世俗主義者の僕でも「考えさせられる」という程度には受け入れられる、あまり宗教色の強くない解釈に目を向ける。

初期仏教も、反「演繹主義」的な側面があり、また道徳的問題についての一人一人の内省を重視しているところは、評価できる。微妙だが、人間の心理のあり方を根拠としているところに注目すれば、道徳的自然主義といいうる面もある。

真言宗

正直言って、真言宗は(僕の実家の宗旨なのだが)、そのあまりにも呪術的すぎるところが評価できない。ただ、その呪術的側面も、空海の活躍当時においては「合理的な」社会事業であったと言いうると思うし、また呪術的側面を離れても、真言宗が社会事業に強い関心を持っていた/いることは評価できる*8

日蓮宗

日蓮宗も、やはり正直言って、それほど評価できない。何度も読んだわけではないが、妙法蓮華教にもとくに感銘を受けなかった。ただ、真言宗との評価と被るが、日蓮の枠組みの中では「合理的」なものとして、社会事業の必要性に気づき、それに取り組んだ点は評価できる。

浄土教

浄土教といっても、おもに浄土真宗、さらに親鸞の思想についてだが、これは比較的高く評価している。『教行信証』は正直言って全般的には理解できなかったが(それでも部分的には興味深いところがあった)、一時、『嘆異抄』は僕の愛読書の一つだった。

親鸞の思想は、一言で言えば、「道徳的無能力主義」といってもよいだろう。道徳的ないしは宗教的に正しい行いというのは存在するのだが、それを実践することは僕たちの能力では不可能なのだ、という考え方。自らの道徳性ないし宗教性への深い絶望と、そこからでてくる誠実さというのは、かなり考えさせられる。

また、もちろん、浄土教が当時の被差別階級に対して実践可能な宗教的教義・行為を提示して、彼らの「宗教的名誉」とでもいうものを回復した、あるいは作ったということも評価できる。ちなみに、僕が親鸞を評価しているとして友人にこの話をしたとき「『宗教的名誉』なんて理解できないよ」といわれたが、「でも、逆に、『宗教的な侮辱』が人をひどく傷つけることは理解できるのでは?」といったら、それは理解できるということだった。

禅宗

禅宗についての、僕の評価は揺れている。以前は、超自然的な存在者へのコミットメントがほとんどないととらえていて、その点を高く評価していたが、いまは、それは現実を見ていないとらえ方だという気がする*9。いずれにせよ、超自然的な存在者へのコミットメント云々というのは、ここでの主題ではないのでおいておく。

禅宗について僕が評価している面は、食事、就寝、労働といった、世俗的生活と共通するいわば「日常生活」に注目したところだ*10

神道

神道*11について、僕がどこをどう評価しているか、というのは難しい。少なくとも、厳島神社の大鳥居のような神道の審美性については、ナショナリスティックな好みの問題はあるとはいえ、僕は高く評価している。しかし、その教義については、「不立文字」を掲げる禅宗よりもなおとらえどころがないので、難しい*12

ただ、極めて雑駁とした印象論だけど、人間の喜びや悲しみ、そして怒りといった強い、ときにはコントロールしがたい感情を、ただ抑圧するものではなく、ある程度「発散」させることによって平常の状態と調和させるものとしてとらえているように思え*13、これは評価できるのではないかと思う。

儒教

孔子の教説とその解釈としての「儒教」と宗教としての「儒教」の関係は微妙だけど、前者と区別された宗教伝統としての「儒教」についてはよく分からないので、孔子の教説としての「儒教」について*14

論語』は、やはり僕の愛読書の一つだった。『論語』を読む限り、孔子ははっきりと自分の行動を社会事業としてとらえており、弟子達もその視点を共有していた(だから、隠者批判という側面がでてくる)*15。古代の思想家たち、プラトンアリストテレス、イエス、釈迦などの中で、完全にユニークとまではいえないにしろ(プラトンやイエスには社会改良家としての側面もある)、孔子ほど社会事業家、もっといえば社会改良運動家・活動家*16としてはっきりと自分のあり方をとらえていた人は珍しいだろう。

現代の日本で、周礼がどうこうというのはいうにおよばず、伝統的に日本で「儒教的」ととらえられていた道徳規範そのものを復活させようという運動があれば、正直なところあまり好意的にはなれない。しかし、孔子の活動は戦争の悲惨さや権力者の専横などに対する社会改良運動だったのであるということは、もっと評価されるべきだと思う。

*1:書く以上、批判を受けるのは同然なので、批判を受ければ、勉強させてもらいます。

*2:この言い回し自体は、どちらかといえばキリスト教っぽい。

*3:レヴィナスの思想とも関連する。

*4:鈴木大拙は、たしか、これを「服従」という言葉で全ての宗教に一般化していたと思う。

*5:「天国にいけるから、他人に親切にする」というのでは、本当の利他性ではない。

*6:純化しすぎか?

*7:だからといって、「哲学ではなく、宗教である」というわけではないが。「宗教にして、かつ哲学」というカテゴリーはあってもよい。そもそも、ある思想が「これは哲学かどうか?」なんていうのはあまり意味のない疑問だと思し、「哲学である」「哲学ではない」というカテゴリ分けから、何か興味深い結論が導けるようには思えない。

*8:べつに、キリスト教などが社会事業に無関心だということをいっているわけでは、もちろん、ない。

*9:それでも、超自然的な存在者の教義上の重要性は、比較的低いとは思うが。

*10:これは、鈴木大拙も強調していたはず。もちろん、キリスト教カルヴァンも世俗的生活について肯定的評価をしたわけだけど、べつにキリスト教と仏教、プロテスタンティズム禅宗の比較をするのが目的ではないので、置いておく。

*11:ただし、明治期以降の教派神道は除く。

*12:本当なら、「吉田神道は云々」ということが言えるほど勉強していればよいのだが…

*13:アラミタマ・ニギミタマの思想と関連させることができるのではないだろうかと思う。また、日本神話の神々は、盛大に喜び、楽しみ、悲しみ、怒る。この神々のあり方のように「かんながら」に生きれば、僕たちもまた十分な喜怒哀楽を備えた生き方をするだろう。話は変わるけど、ギリシア神話の神々もずいぶんと喜怒哀楽が激しいけど、実際にどのように信仰されていたのかといえば、詩人達が語る神話ほど喜怒哀楽の激しいものとして信仰されてされていたのか、すこし疑問を感じる。少なくとも、プラトンの著作に出てくる登場人物たちは、ギリシア神話の神々を信仰しているわけだけど、ほんとうに神話のような喜怒哀楽の激しいものとしてではなく、もっと抽象的な「原理」の擬人的な語り方として信仰しているかのようにも見える。

*14:だからといって、孔子の教説が「宗教ではない」ということではない。孔子は、人間の善行/悪行を監視している天を実在的にとらえていただろうし、天による道徳的にバランスを保つ因果関係を信じていただろう。

*15:むろん、『論語』も後世に改竄されている可能性がある。

*16:「改良」の方向は、復古主義なのだが。しかし、復古主義(古に還る)は、保守主義(現在を保ち守る)とは違うし、後者との対比の上でなら「社会改良運動」といって良いだろう。(『論語』の記述によれば)実際、孔子が周礼の調査を行っているほど、孔子の活躍当時には失われていた。