道徳の実在性

実在論の基準は二つあるといってよいだろう:

  1. 命題の真偽に認識超越的に決まる - つまり、「〜が正しいと考える(思う/認識する/感じる)」ということと、「〜が正しい」ということが異なる
  2. 認識超越的な存在者がある - つまり、「〜が存在すると考える」ということと、「〜が存在する」ということが異なる(この「〜」は存在者でも、存在者の性質でもよい*1

1を満たせば弱い意味での実在論、2も満たせば強い意味での実在論といえる*2

僕が「道徳の実在論*3というとき、「社会はどうあるべきか」「人生はどうあるべきか」という営みが、この両方の基準を満たす、という立場のことを意味している*4

整合性からくる真偽

道徳の実在論がそれなりに説得的だと僕が感じるのは、たぶん根本的には、厳格な意味で論理性よりも穏やかな合理性という判断・推論の基準を信頼しているからだが、論理性のほうが使いやすいので、まず数学を例にとろう。例えば、ユークリッド幾何学のすべての公理を覚えている人は、ユークリッド幾何学において偽なる命題を真だと誤解し、信じていることはありえないのか? 明らかにありえるだろう。しかし、その人はその点において間違っているのであり、ユークリッド幾何学において、「〜が正しいと考える」ということと、「〜が正しい」ということが異なるといえるだろう。すべての人が「ユークリッド幾何学において〜が正しい」と考えていれば、それが「ユークリッド幾何学において〜が正しい」ということ自体を成立させるというは、奇妙な話だ。

同様に、今度は論理性だけではさばききることができないが、ある人が「嘘をついてはいけない」と「他人を助けなくてはいけない」という道徳規範を持っているとして、しかもその人がその二つの道徳規範が競合することはないと考えているならば、たぶん、この人は間違っているだろう。少なくとも、このようにいくらか弱い意味では、人は道徳的判断において間違いうるわけで、道徳においても、「〜が正しいと考える」ということと、「〜が正しい」ということが異なるといえるだろう。

これだけでも、道徳は、実在論の基準1を満たす。

存在に対応する真偽

また、僕がある人物Xが非常に誠実な人だと考えているとする。しかし、Xは友人を騙して借金の保証人にしたことがあり、婚約していた相手から金を奪って逃げたことがあり、自分の行った犯罪の罪を他人に着せて逃れたことがあり、そしていま僕に友人面をして陥れようとしているならば、Xが誠実な人だという僕の評価は間違っていることを、僕は認めることができる。Xは、少なくとも僕にとっての、誠実さの基準を満たしていないのだから。だから、Xの誠実性という性質について、僕が「〜が存在すると考える」ということと僕の基準において「〜が存在する」ということは異なる。

また、誠実性という性質はかなり評価的であることを否定することはできないが、それがどのようなことを意味するのか、社会的な合意がまったくないわけではない。実際、もしそのような合意がないのであれば、僕が「騙して借金の保証人にし」「金を奪って逃げ」「罪を他人に着せて」「友人面をして陥れよう」という例を出した意図を、他の人はまったく理解できないだろう。このような基準や評価に全面的に同意できるかはともかく、これらが誠実性という性質に関わると一般的に考えられていることは間違いない*5

ここで、「善」とか「悪」とかいう極めて抽象的な性質まで、誠実な、残酷な、人道的なという比較的具体的な性質と同じように、同じ程度に実在的だという必要はない。この点について、はっきりとした意見は持っていないが、物理学で利用されているからといって関数(写像)とか数とかまで物体や素粒子と同じように、同じ程度に実在的だという必要はないのと類比的だろう*6。「善」とか「悪」とかいう極めて抽象的な性質は、より実在的な「誠実」「残酷」「人道的」といった概念をうまく整理できれば、ひとまずは十分だ。また、後者のような諸概念の整理に役立たないならば、「善」とか「悪」とかいう概念は捨ててしまってもよい。

「善」とか「悪」とかいう極めて抽象的な性質まで、なにか強い意味で実在的でなくては道徳は実在的ではありえないというのは、単一の原理から演繹されなくてはどのような体系も実在的ではありえないという思考を前提としなくては、擁護できないように思える。そして、その前提は擁護できない。それは、むしろ、歴史の一般法則、そしてのその単一の原理が発見できなければ歴史学は科学ではないといったような、むしろ「病んでいる」とさえいえる考え方だろう。

これで、道徳は、実在論の基準2を満たす。

混合ないしは往復

もちろん、何かについての僕の道徳的評価・道徳的判断が変化することは、整合性について誤った判断をしていたという前者の場合(整合性からくる真偽)でもありえるし、対象の知識がかけるゆえに誤っていたという後者の場合(存在に対応する真偽)でもありえるし、両者が混合された場合でもありえる。

例えば、人工妊娠中絶についての僕の評価は、人権・人命・平等といったものについての考えをより整合的にするように努力することによって変化しうるし、また人工妊娠中絶の実態についての知識が増すことによっても変化しうる。たぶん、もっとありそうなのは、人工妊娠中絶の実態についての知識が増すことによって、自分の道徳的信念の整合性に疑問がでて、その整合性を確保しようとし、さらにまた人工妊娠中絶についての知識を求め、さらに整合性を求め、さらに知識を求め… という、境界の判然としない二領域を往復することによって変化する、ということだろう。

*1:僕は実念論を積極的に支持しているわけではないので、本当はこれはきちんと分けるべきだろうが。

*2:2の基準を満たしていれば、真理の対応説をとることによって1の基準を自動的に満たせる。

*3:普通は「倫理的実在論」などというが、倫理(ethics)に語源的にあくまで個人道徳に焦点をあてているニュアンスがあるので、僕は社会や共同体のあり方の道徳としての「正義」と個人道徳の両方含めるときには「道徳」というようにしていること、日本語で「倫理」と「倫理学」を区別するのが面倒なことから、なるべく「倫理」ではなく「道徳」という言葉を僕は使っている。…ここではあまり関係ないが、「数学的実在論」も「数学の実在論」といったほうが分かりやすくない? 「数学的実在論」というと、なんか、数学的方法を駆使した哲学的議論という意味にも読み取れそうに思う。

*4:もしかしたら、ほんとうは「○○の実在論」「××実在論」というのは家族的類似性を満たすグループだととらえたほうがよく、こんな「基準」をこねくり回すのは良くないのかもしれないが。

*5:というか、およそどんな言葉であれ、使用の基準、慣行というものがまったく共有されていない言葉など社会の中で使用に耐えるはずもなく、その言葉が使用されているということは、なんらかの基準ないしは慣行が共有されていることを前提している。

*6:もちろん、類比はどこかで破れる。しかし、この類比は、ある探求の営み、あるいはそれの目指す理論体系に含まれる概念がすべて強い意味で「実在的」といえなければ、その探求なり理論体系が実在に関わっているといえないわけではない、ということだけ、示せればよい。