「社会の道徳慣習を改善していく」プロジェクト

私は、道徳の領域において大事なことは、「社会の道徳慣習を改善していく」という大きなプロジェクトにコミットしていくことではないかと考えています*1

しかし、科学の領域と道徳の領域をはっきりと分けておこうとする動きが強すぎると、そのプロジェクトを骨抜きにしてしまうように思います。ひとつには、得られたはずの、判断の重要な材料が得られなくなるから。もうひとつには、その分けておこうとすることが、「道徳は主観的だ」という考えとつながっていて(と私は思っている)、「道徳は主観的だ」という考えは「社会の道徳慣習を改善していく」プロジェクトへのコミットメントを阻害するから。

われわれがなぜ「事実」と「価値」との間に線を引きたくなるのか−しかも、「価値」が合理的議論の領域から完全に排除されてしまうような仕方でその線を引きたくなるのか−には、さまざまな理由があります。一つには、「それは価値判断だ」と述べ、「それは主観的好みの問題にすぎない」を意味した方が、ソクラテスがわれわれに教えたことを実行するよりも、〔…〕はるかに楽だからです。〔…〕事実/価値二分法に関して最悪のことは、実際上それが議論停止装置として、しかも単なる議論停止装置ではなく、思考停止装置として、機能するということです。


『事実/価値二分法の崩壊』52-53項

*1:これはちょっとミスリーディング。厳密には、私がコミットしている/コミットしたいと思っているのは道徳の実在論と可謬主義であり、その実践は「社会の道徳慣習を改善していく」プロジェクトへの参画以外は思いつかない、ということです。現実にありそうなこととは思いませんが、もし、私たちが自分達の道徳慣習の根底にある一定の事実の想定があることに納得し、それらがことごとく事実でないことに納得したならば、むしろ理念的な道徳の実在論と可謬主義を守るために、「社会の道徳慣習を改善していく」プロジェクトごと道徳慣習を捨て去るという選択肢もありえると考えています。この場合に、それを道徳の実在論と可謬主義を「社会の道徳慣習を改善していく」プロジェクトより優先させたというべきか、あるいは「社会の道徳慣習を改善していく」プロジェクトが発展的に解消されたというべきか、どちらかは良く分かりません。