「科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか」の一部再論

道徳的判断(あるいは道徳的推論、道徳的議論)をいうものが、弱い意味でよいから「合理的」なんだとしましょう。例えば、Aさんは「基本的には、嘘をつくよりは、つかないほうが良い」という道徳観を持っていて、それなのに、誰の利害にも関わらない場面で、他に何の理由もなく嘘をついたとしたら、Aさんは全面的に非合理な人間だというのではないにしても、そのときには自分の道徳観と「合理的」に整合しな行動をとったのだといちおういえるという意味で、道徳的判断は「合理的」なんだとしましょう。これは、ことさらに否定するほどの仮定や表現ではないでしょう。

さて、道徳的判断がこういう弱い意味で合理的なのだとした上で、ふたつの極端な道徳的判断の捉え方、「演繹主義」と「個別判断への還元主義」*1という見方を導入します。演繹主義とは、まずそれぞれのひとが自分なりの抽象的で、明確で、強固で、無矛盾な価値観・道徳観を、いわばその人なりの道徳の原理とでもというものを持っており、「もし、これこれの事実があれば、どうするのが正しいのか」と問われたら、即座に、断定的に「こうするのが正しい」という回答を自分の価値観・道徳観から演繹的に導けるという考え方です。対して、個別判断への還元主義というのは、どの人も自分の抽象的な価値観・道徳観などを持っておらず、つねにアドホックに道徳的判断をしているだけで、「私は、こういう価値観・道徳観を持っている」という表現は、その人がしてきた、またするだろう個別の道徳的判断を要約的に述べたものだ、という見方です。

演繹主義においては、「○○さんは自由を大事なことだと考えている」というのは○○さんが実際に何か「自由」という観念をはっきり持っていて、○○さんががそれにコミットしていることを意味しています。対して、個別判断への還元主義においては、「××さんは自由を大事なことだと考えている」というのは××さんが実際に何か「自由」という観念をはっきり持っているというわけではなく、たんに××さんが個別的な事例についてしてきた/するだろう判断をそう要約するのが適当だ、ということにすぎません。

さて、どちらの立場も極端です。そもそも、個別判断への還元主義のもっとも極端なバージョンは、道徳的判断が弱い意味で合理的であること自体を否定しかねません。対して、演繹主義も極端です。実際に、自分の価値観・道徳観を抽象的・明確・強固・無矛盾に保持しており、どんな場合でもそこから即座に個別的な道徳的判断を演繹的に導きだせる人などいないでしょう。したがって、私たちが実際に行っている合理的な道徳的判断のあり方を理解するには、この間の中間的な見方をする必要があります。

私が、エントリ「科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか」で主張したことの一部は*2、「科学は道徳に干渉するべきではない」というのは、この極端な演繹主義的な見方か、あるいはそれに近すぎてやはりまだ適切ではないではない捉え方に依拠している、ということです。

私は、どちらかといえば、個別判断への還元主義に近い考えを思っています。すでに書いたように、これの極端すぎるバージョンは、道徳的判断が合理的であること自体を否定してしまうでしょう。したがって、人々が個別的な道徳的判断の前提となる価値観や道徳観というものを持っているとしても、それは次のようにとらえられるべきだと考えます。つまり、その価値観や道徳観のその内実を十分に他人に示すには、いくらか抽象化された仮説事例や現実の事例に対するを判断の家族的類似関係のグループを持って示すことによる、と考えています。そして、その人本人にとっても、自分の価値観や道徳観を把握し、内省するためには、そのような作業を経なければならないでしょう。

例えば、「残酷なことはしてはならない」という道徳観を私が持っているならば、それを他人に説得したり、自分で内省するためには、「…という場面では、…という行動をするのは残酷なことで、そのために行ってはいけないだろう」「では、もう少し違った…という場面では? これも、その残酷さのゆえに、行ってはいけないだろう」「さらにまた違った…という場面では? これは、パターナリスティックな介入なのでは? いや、むしろ、そのパターナリスティックな介入であることが、本人の自律を損なう残酷な行為ととらえるべきだろう」という(いくらか抽象化された)個別的な道徳的判断のグループを示し、あるいは反芻しなくてはならないでしょう。

そのため、個別的な事例について道徳的判断が変わったのであれば、それが科学的知見の影響を受けてであれ、そうではないのであれ、それは実際にその人の価値観あるいは道徳観なるものがいくらか変わったのだと考えます。「その人の『本当の』『基本的な』価値観・道徳観が変わったのではなく、個別事例への適用が変わったのだ」(極端に演繹主義的な見方)とは考えません。個別事例の判断が変わったのであれば、それは価値観あるいは道徳観が変わったのです。

たしかに、科学的知見の影響を受けて、あるいは科学的とはいわないまでも何らかの事実認識が変わることによって、ある個別的な道徳的判断がそれがもともと入っていたグループ、例えば「残酷なことはしてはならない」ことを示すグループから除外されるようになっても、もともとあった(諸)グループによるその人の道徳的判断の枠組みや傾向性が大変化をこうむったとは、必ずしもいえません。そういう意味では、その人の価値観あるいは道徳観は、ほとんど変化がありません。しかし、例えば、「残酷なことはしてはならない」ことを示すような仮説事例さえその人がまったく思いつけなくなれば、その人が「残酷なことはしてはならない」と信じているといっても、その内容はどのようなものなのかまったく分からないのであり、それはその人が内容のないお題目を信じているに過ぎないでしょう。私は、これを、その人はもはや「残酷なことはしてはならない」という価値観ないしは道徳観を持っていないのだ、と考えます*3

私が「科学は道徳に干渉するべきではない」という主張が前提している持っているとした価値判断と事実認識の領域分割とは、ここでいう演繹主義をほとんど必ずともなっており、そして「科学は道徳に干渉するべきではない」と強調すればするほど、極端な演繹主義的な見方に近づくだろうと私は考えています。演繹主義的な見方をしなければ、科学から分離されている「道徳」とは、いったい何でしょう? 科学から分離されて、かつ自律的な「道徳」の領域とは、どこにあるのでしょう?

しかし、演繹主義的すぎる見方には、魅力も説得力もありません。

第一に、その演繹主義的な見方で前提されてしまう事実認識によって左右されることのない抽象的で、明快で、強固な「価値観」や「道徳観」について、どう合理的に内省し、説得すればよいのかわけが分からなくなる、ということです。今出した「合理的」というのは、はじめに定義した弱い意味で合理的というよりも、強い意味を持っています。

第二に、私は、この「強い意味」での合理性がなくては、民主主義というのは皮相な遊戯に陥ってしまうだろうと考えています。そう考えない脱出口は、一つはあります。それは、ほとんどの人の抽象的で、明快で、強固な「価値観」や「道徳観」は、じつはアプリオリに、あるいは生得的に同じであると考えることです。しかし、その仮定をおくのであれば、その仮定そのものから、道徳的判断の変更不可能な部分は一致しており、変更可能な部分は事実認識に依存しているのですから、前者を変更しようという試みに気をもむことはないし、後者については科学的知見を持ち出して変更しようとしてもかまわないのではないでしょうか。

第三に、いずれにせよ、あまりに抽象的で、明快で、強固な(しかも、「無矛盾な」?)「価値観」や「道徳観」という考え方は、私たちの経験に反しています。少なくとも、私自身は、そのようなものを内観的に発見することはできません。そういったものとして、唯一の正しい「価値観」や「道徳観」が存在するにせよ、存在しないにせよ、どうせ、そんなものを使って私たちは個別的な道徳的判断をしているわけではないのです。

優生学崇拝のように科学的な原理に道徳的な「原理」を見出そうとすることも、それを批判するNOMAも、この演繹主義的すぎる見方の双子の兄弟であると、私は考えています。道徳的判断を、極端に演繹的なものとみるから、道徳的な「原理」がないことに不安を覚えたり、「原理」を侵害してはいけない*4と考えたりするのはないでしょうか。

*1:「演繹主義」も(この意味での)、「個別判断への還元主義」も、私の造語です。

*2:正直なところ、このエントリの記述は、エントリ「科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか」の記述よりも「演繹主義」に譲歩している。「科学は道徳に干渉しようとするべきではないのか」の表現は極端すぎたかも。

*3:これは、この人が「残酷なことをしてもよい」という逆の価値観ないしは道徳観を持っている、ということを意味するわけではありません。

*4:しかし、それは不可能なことではないのか?