聖書解釈

ドーキンス『神は妄想である』の中で、ひとつ、穏健で伝統的なキリスト教徒が使えそうな反論を思いついた(ドーキンス原理主義者を中心的な攻撃対象においているので、その意味では関係が薄いが)。これは、比較的、プロテスタントよりも、カトリックのほうが主張できそうだ。

ドーキンスは、どうせ聖書を時代精神に沿うように解釈するのなら、時代精神、自分の道徳的判断に直接従ったほうがよいのではないかという。たしかに、聖書の記述そのものと現代の道徳慣習を比較すると、そこには大きな食い違いがあるので、ある部分を採用し、ある部分を棄却するのは恣意的であるように思える。

しかし、聖書解釈にも伝統があるのだ。したがって、その伝統を重んじる立場に立てば、そもそも聖書を文字通り解釈する必要はないし、時代精神が変わっていっても、解釈の微調整を繰り返すだけでよいはずだろう。その場合は、その解釈は時代精神の強い影響を受けているとはいえ、それほど恣意的というわけではなく、前の世代の聖書解釈に拘束されて、それなり合理的な再解釈(ドゥウォーキンの「構成的解釈」)と位置づけることができる。また、そのようにしても、聖書の権威を認めていないことにはならない。

これは、米国憲法の解釈についても、同じことが言えるはずだ。米国の裁判官達は、基本的には以前の判決の憲法解釈に拘束されて憲法解釈を行っている。それは時代精神を反映して移り変わっているが、だからといって完全に恣意的だとか、憲法の権威を認めていないとか、いっそのこと憲法に従うのはやめて時代精神そのものに従えばよいではないかということは、いえないだろう。それとも、非常識にも、ドーキンスはそういうつもりなのだろうか。

憲法の権威というものが、結局はどこに由来するのかは難しい。しかし、第一に、少なくともその制定形式、制定手続きだけに求めると、その制定手続きに権威を与える恣意的または仮説的な神秘的な源泉が必要になるか、明らかに無限後退に陥る。第二に、権威の源泉をその内容の卓越性に求めるにせよ、人々がそれに権威を認めて従っているという事実に求めるにせよ、この議論の場合は、そのときに問題になる「憲法」とは、たんなる文字列でも、その字義通りの解釈でもなく、現在の解釈による憲法を考えるべきだろう(内容の卓越性が問題になったり、人々が従っていたりするのは、現在の解釈だから)。

聖書解釈が同様であっていけないということはないだろう。聖書の道徳性を擁護する人は、現在の解釈を擁護してよいし、それはその人個人の恣意的な解釈というわけでもない。