哲学の落とし穴

17世紀のデカルトから20世紀の半ばまで、多くの西洋哲学者が陥ってしまった落とし穴があるように思う。それは、マッハ主義に顕著なのだが、理論や実践が要請するために想定しなければならない存在者は、「仮設的」存在者であり、したがって非実在的である、という考え方だ。

どうして、そう考える必要があるのだろう? 理論や実践がある存在者を要請するならば、この現実の世界に存在する存在者についての仮説だと、考えればよいのではないか。


カントはこの落とし穴に嵌まらなかったが、なんというか反対の方向に解決を求めてしまった。加えていうとプラトンもそうなのだが、彼らは、要請された存在者のためにもう一つの世界を用意して、二つの世界が存在するという解決を行った。

二つの世界? それはそれで受け入れがたい解決だ。理論や実践が要請する存在者が、この現実の世界に存在し得ないと考える合理的な理由があるのなら、その仮説は諦めるべきだ。


僕らの知的な探求の対象となるのは、この現実の世界であって、それ以外のものではありえないのではないか。