僕はなぜこの僕なのか?

これを告白するのはものすごく羞恥心を感じてしまうのだが、「僕はなぜこの僕なのか?」という誰もが思いつくような問い、いかにも思春期的な問いが、僕の哲学への関心をずっと引っ張ってきた。

そして、この問いにやっと答えが出たような気がするので、その答えを書く。

回答

問い:僕はなぜこの僕なのか?

回答:

  • 僕がこの僕であるはたんに事実だ。
  • これに理由はない。
    • 僕はこれをほぼ直接的に知ることができるので、正当化理由は必要ない。
    • 誰かが意図的に引き起こした事実ではないので、目的論的理由もない。

これは、ほぼ自明なことではないだろうか。

哲学談義

まず、「僕はなぜこの僕なのか?」という問いを、分析哲学の作法に従って議論しようとすれば、文や語の指標性、文脈への依存性、指示のメカニズムといった複雑な言語哲学的な問題を引き起こす。これはまさに迷宮といってよいようなものだが、仮にその迷宮を抜けたところで、その作法に従った回答は、たぶん「文法的に真」とか「分析的に真」とかいったものになるだろうことが予想される。

しかし、そんな迷宮で迷子になる必要はないのではないか? 「僕はなぜこの僕なのか?」という問いには、まさに明白な意味があり、分析を行わなければ了解できないようなものではない。それは、事実として存在するある意識なり、人格なりが、まさに事実として存在するその意識なり、人格なりであるのは、なぜなのかという問いではないのか。

そして、それはまさにそういう事実がある、という平明な回答で満足できると思う。

たしかに、文や語の指標性、文脈への依存性、指示のメカニズムといった言語哲学的な問題は興味深いし、それはこの問いに関係がある。しかし、そういった問題を解決しないと、この問いに答えられない、と考える必要はないだろう。


次に、僕がこの僕であるのは、アプリオリな真実なのか、アポステオリな真実なのか、という問題がある。しかし、どちらにせよ、僕がこの僕であるのは、ある平明な事実であるということに変わりはないと思う。

この平明な事実が、アプリオリであるのか、アポステオリなのか、事実というからにはアポステオリなのではないかといったことは、どういった形而上学形而上学的言い回しを採用するのかということに依存する。その上、「アプリオリ」や「アポステオリ」という言い回しは、プラトン主義、中世キリスト教神学、カントといった偉大な思想体系の手垢が付きすぎていて、使いにくい。

たしかに、どのような形而上学存在論・認識論を採用するべきか、その形而上学存在論・認識論では、僕がこの僕であるのはという事実はどのような身分をえるのか、ということは興味深いかもしれない。しかし、それはせいぜい、「僕はなぜこの僕なのか?」という問いや、それは事実であるという回答の言い回しを変えるだけで、その回答に実質的な変更を与えるようなものだとは思えない。



さらに、可能世界を持ち出せばどうなるのか、という疑問もありえる(それも一つの形而上学だが)。

たしかに、可能世界の全体を考えれば、僕がこの僕であるはたんに事実だ、とは容易に答えられないようにも思える。「僕はなぜこの僕なのか?」というのは、かなりミステリアスな問いであるように思える。しかし、それは可能世界論を成り立たせる、貫世界同一性という概念がミステリアスだからだ。悪く言えば、可能世界論自体が意味不明だから、その視点において「僕はなぜこの僕なのか?」という問いが意味不明になってしまうのだ。

そして、可能世界論を真に受けても、この現実世界において僕がこの僕であるはたんに事実だ、ということに変わりはないだろう。

この現実世界で事実であることを、それを事実として理解できるのに、なぜわざわざ可能世界論を持ち出さなければならないのか分からない。何事かを理解したり、正当化したりするのに、この現実世界について理解することと、可能世界の全体について理解することが、同様の重要性を持っているということは受け入れがたい。この現実世界において理解することのほうが、圧倒的に重要だ*1


結局、僕がこの僕であるはたんに事実だ、ということは、たしかに哲学的難問を引き起こすかもしれない。

しかし、それはこの平明な回答が矛盾だとか、不明瞭だとかいうことではなく、より壮大な哲学体系のどこに位置づけたらよいのか、その位置づけのためにどんなテクニックを使わなければならないのか良く分からないということに過ぎない。

そして、そこで苦しんだり、譲歩したりするべきなのは、その哲学体系のほうであって、この平明な事実のほうではない。


とはいえ、僕もある形而上学を -「僕がこの僕であるはたんに事実だ」という回答を適切に位置づけられる形而上学を- 提案しておくべきだろう。

僕は、ある「やわらかい唯物論」とでもいうべき形而上学、赤や青といった色、誠実だとか寛容だとかいった道徳的性質、人間の心の様々な働きが、物理的存在者や物理的現象のある見方としてなら実在的だと認める唯物論を支持する。これなら、「僕がこの僕であるはたんに事実だ」という回答が、何か問題を引き起こすようには思えない。


たぶん、「僕はなぜこの僕なのか?」という問いに何か深遠な意味がありそうだと思うのは、ここでいわれている「僕」が身体から独立した、魂とか心とか、なにかそういった特殊な存在者だと想定してしまうからだろう。たしかに、それはミステリアスな存在者だ。物理領域の因果的閉包性に反するのだから。

しかし、そんな存在者はきっぱりと拒否してしまえばいい。そうすれば「僕はなぜこの僕なのか?」という問いの深遠さはなくなる。そして、そんな存在者を拒否する合理的な理由がある。

人格

僕がこの僕であるはたんに事実だという平明な事実が、なぜこんなにも疑問に思えるか。それは、「人格」とは何か、それはどういったものか、ということが問題だからだろう。僕という人格がこの僕という人格であることは、平明な事実だ。それは、ほぼ自明だ。しかし、その「人格」とは何かのか? これが分からないから、「僕はなぜこの僕なのか?」という問いが深遠なものに思える。


僕は、今、「『人格』とは何か?」という問いに、いちおうの答えを持っている。

それは、ある人がある意見を自分の意見として誰かに主張する、というコミュニケーションを成立させるために必要な存在者だ。

(ここで僕は人格が「非物理的な」とか「非実在的な」という意味で、「仮説的な」存在者だとは言いたいわけではない。それは、一定の継続する物理的現象に同定できるだろう。人格はある物理現象だけど、それに関心をもち、それに注目をするのは、ある実際的な必要からだ、ということを言いたい。そして、そういった必要や関心に対して相対的であっても、それが実在的であることは、僕の採用する「やわらかい唯物論」では許容される。)


僕は、僕の意見を持っている。別の人は、また別の意見を持っている。しかし、僕たちはその状況を必ずしも放置せずに相手を説得しようとしたり、説得されたりする。なぜ、そんなことが可能なのか?

それは、僕も相手も同様に、自分とその相手が、ある程度合理的な判断の上でその主張をしていると考えており、一定の論拠に基づいて相手がさらに合理的に思考を進めれば、意見を変える、あるいはその反対のことが起こると考えているからだ。

この事態をうまく把握するために、僕たちは「人格」という存在者を必要とする。それは、合理性という同じものを共有しているが、知っている事実、少なくとも注目している事実は互いに異なる、そういう存在者だ。


かなり漠然としているが、これが「人格」というものの正体だと思う。

*1:蛇足ながら付け加えておきたいが、様相論理を理解するための可能世界意味論は、じつにエレガントなモデルだ。とくに、様相論理の形式体系の完全性・無矛盾性を、そのモデルが直観的に示していることはすばらしい。そして、そういうモデルを構築することは知的な作業であり、知的な探求だ。こういったことを僕は認める。