物理領域の因果的閉包性

「物理領域の因果的閉包性」という言葉が、最近すごくお気に入りだったが、ちょっと疑問が出てきている。


「物理領域の因果的閉包性」が「質量・エネルギー保存の法則」の帰結なのか、むしろ前提なのか、と問われると少し戸惑ってしまうが、たぶん、「質量・エネルギー保存の法則」を端に(ある閉鎖系の)エネルギーと質量の総和が一定であるという法則だと考えるならば、「物理領域の因果的閉包性」がその帰結だとまではいえない。

例えば、ある瞬間において、ある物質をテレポートさせる超能力があっても、「質量・エネルギー保存の法則」は破られないだろうから。

ただ、心の哲学で問題となるような「物理領域の因果的閉包性」を破るような想像上の事態は、大抵は「質量・エネルギー保存の法則」を破るだろうし、そうでないようなものも何らかの物理法則を破るだろう。


だから、哲学を考えるときに「物理領域の因果的閉包性」ということはすごく便利なのだが、それは「質量・エネルギー保存の法則」を中心とした、いろいろな物理法則を要約した言葉なのだと考えたほうが良いと思う。

「物理領域の因果的閉包性」を様々な物理法則の要約ではなく、それ自体一つの法則、あるいは一つの思想上の方針だと考えるにしても、やはり自然科学によって確証されてきた知識なのだと思う。

仮に、「物理領域の因果的閉包性」を自然科学の方法論的前提と考えるとしても、それは闇雲に設定された、「物理領域の因果的閉包性」の否定と同列に正当化される、あるいは同様に正当化されていない、たんなる公理なのだと考えることは合理的ではないように思う。

「物理領域の因果的閉包性」が方法論的仮定であっても、今での物理法則の発見によって確証されてきた仮定であって、そしてそれがこれからも破られることはないだろうと想定することに相応の合理性のある仮定だと考えるべきではないだろうか。


この疑問は、「自然の斉一性」という言葉にも向けることができる。「自然の斉一性」は、よく自然科学の方法論的仮定だと言われる

しかし、ニュートンは地上の物体の運動の法則と、宇宙の天体の運動の法則が一致することを端に仮定したのではなくて、それを観察によって証明したのではないだろうか。また、生物学の発展は、非生命体の運動の法則と、生命体(の微小な部分)が従う法則が一致することことを確証してきたのではないだろうか。


加えて、「自然の斉一性」を持ち出す多くのときに、僕たちが念頭においている重要な含意又は意図は、自然法則は宇宙のどこでも、いつでも同じように成り立つというそのこと自体ではないように思う。そうではなくて、自然科学が明らかにした物理法則は非目的論的だ、ということを念頭においていることが多いのではないだろうか。

そして、「自然の非目的論性」(造語)も、たんなる自然科学の方法論的仮定ではなく、自然科学によって確証されてきたものであるように思う。


まとめると、「物理領域の因果的閉包性」「自然の斉一性」「自然の非目的論性」は、いずれも自然科学の方法論的仮定ということはできるが、それぞれの否定である「物理領域の因果的非閉包性」「自然の非斉一性」「自然の目的論性」と比較して、自然科学そのものによって確証されてきた仮説であり、受け入れることが合理的な知識だとみなすべきだと思う。