結果無価値論の「過失」

よく考えてみれば、結果無価値論の過失概念の中心にある予見可能性は、心理の内容ではないのではないかと思う。

まず、予見可能性意識の内容ではない。何か結果の予見可能性を意識しているのならば、それはまさに予見そのものだ。だから、意識の内容として、予見と区別された予見可能性を考えることはできない。


では、予見可能性無意識の内容でありえるか? 予見可能性が無意識の内容であることを肯定する二つの議論がありえる。

一つ目に、無意識の予見がある場合に、それを「彼には予見可能性があった」と定義する議論がありえる。

哲学者サールの無意識の議論に僕は完全に賛同するわけではないけど、ここでは彼の主張が参考になるように思う*1。僕たちが、ある人について「彼は無意識にxを認識している」という主張を行うのは、彼がxを意識的に認識していたとするならば、彼がまさに行ったような行動を行うだろう場合だろう。少なくとも、ある人がある結果を「無意識に予見していた」と主張できるのは、彼が意識的にそれを予見していた場合にとるような行動をとった場合のみではないかと思う。

このような「無意識の予見=予見可能性」とする定義自体は可能だと思う。しかし、この定義でもって刑法の予見可能性の議論を説明することはできないのではないだろうか。というのは、過失犯が認定されるのは、問題となっている行為者が問題となっている結果と因果関係を認識していたならば、そのような行動をとらなかっただろう場合だからだ(全てではないとしても、大部分はそうだろう)。

二つ目に、無意識の予見とは独立に、無意識の予見可能性そのものが無意識の内容である、という議論を考えてみる。しかし、先ほどの議論を援用すると、ある人について「彼は無意識の内容として予見可能性を持っていた」と主張できるのは、その人が「意識の内容として予見可能性を持っている」場合に行うだろう行動をとった場合だ。しかし、「意識の内容としての予見可能性」という概念は、予見そのものと区別して理解することはできないことは、既に述べた。したがって、やはり、無意識の予見と「無意識の予見可能性」を無意識の内容として区別することはできないので、無意識の予見とは独立に無意識の予見可能性そのものが無意識の内容である、という議論は理解不可能なものとなる。


以上から、予見可能性は、意識の内容でもなければ、無意識の内容でもないので、心理の内容とはいえない。


もっとも、予見可能性は心理の内容とはいえないとしても、心理の状態であるとはいえなくもない。例えば、人はプールサイドに座ったまま「僕は泳ぐことができる」と主張することができるので、ある人が泳いでいるという状態でない場合であっても、水泳可能性を彼に帰属させることができる。同様に、ある結果の認識が心理の内容ではないとしても、その結果の認識可能性が心理に帰属されることはありえる。そのような可能性を、心理の状態といっても良いだろう。


しかし、このように考えたとしても、過失の認定において、心理の状態として予見可能性の範囲をいわばとして認定し、その後に現実に発生した結果と因果関係がその枠の中にあるのか確認するという思考のプロセスをとることは現実的に不可能だろう。

現実の思考プロセスとしては、一方で心理の内容を認定し、他方で現実に発生した結果と因果関係を認定し、双方の間に予見可能といえる関係があるのか、と考えざるをえないように思う。つまり、予見可能性の認定とは、心理の内容と現実に発生した結果と因果関係のある種の関係の認定だろう。

もっとも、そうであっとしても、否定的な法的評価として、その評価の対象が心理の内容であるということはできるし、逆に評価の対象は現実に発生した結果と因果関係であるということもできると思われる。

つまり、現実の思考プロセスは同一であるとしても、次の三つの言い回しを区別することができるし、その区別は刑法体系上の違いを表現しえる。

  1. 現実に発生した結果と因果関係を背景として、心理の内容(ないしは状態)を、犯罪要件として評価する。
  2. 心理の内容を背景として、現実に発生した結果と因果関係を、犯罪要件として評価する。
  3. 心理の内容と現実に発生した結果及び因果関係の関係を、犯罪要件として評価する。


とはいえ、繰り返しになるが、この三つは刑法体系上の違いを表現しえるが、実際の思考プロセスとしては違いがないだろう。そして、2.は行為無価値論では、相当因果関係の折衷説とされているものと同じだろうと思う。

*1:ジョン・R・サール『心の哲学