合理性

たぶん、僕は知識の因果説、認識的正当化の外在説を支持していることになると思う。しかし、知識の得るための因果関係のあるタイプや、(ソウザの徳認識論のような)知識を得る能力や性質が知識の正当性そのものであるとか、あまつさえ人間の合理性の本性であるとか、といった立場に立つかは留保したい。

そうではなく、あるいはそうであっても、僕は合理性の本性というものがもしあるならば、それは他人を説得する能力、他人を説得する論拠というものにも結びついているのではないかと思う。したがって、合理性とは説得可能性のことであり、知識の正当性もまた説得可能性のことではないか、という方向に傾いている。

デイヴィドソンの三角測量が、やはり正しいのかもしれない。信念という概念も、真(真理)という概念も、合理性という概念も、一切合財は、実在する世界と、自分と、他者とを頂点とする三角測量の中でのみ意味を持つのかもしれない。たぶん、人格という概念がそこでのみ意味を持つのだから。