デイヴィドソンと指示

デイヴィドソンが自分の理論は充足という概念を必要とするが、単純な指示を必要とはしないことを力説する意図は、正直言ってまだうまく飲み込めない。しかし、彼が「概念枠組み」というものを否定することから、彼の理論が指示についての困難な問題を回避していることは理解できるように思う。

パトナムの内在的実在論は、「指示の魔術」説が受け入れがたいことから、僕たちの世界観は複数有り得るバリエーションの一つであることを帰結した。逆に、デイヴィドソンの「概念枠組み」否定は、逆に僕たちの世界観が他に並列する複数のバリエーションの一つであるという考えは理解しがたいとする。そのうえ、彼の著しく全体論的な意味論は、個々の文や語がそれ自体として世界の中の存在者や事態を指示していることを否定し、僕たちが真だと考えている文の全体が、世界の全体に対応していればそれで良いことを示唆する。

これは、真なる文の全体が世界の模写である、真なる文が造っている構造の全体が世界の構造を反映している、したがってある真なる文がある世界の中の事態に対応するのはその模写された構造のゆえにである、ということだと思う。


これを擁護するためには、逆説的だが、言語というものがある意味で主観的、あるいは指標的なことを受け入れる必要があるだろう。僕は、この現実の世界で物理的に制約された身体を持った一人の存在者として、世界のある一側面しかみることだできないし(そう言いたければある「世界観」しかみることができない、と言ってもこの文脈ではそう違わないだろう)、その一側面を記述するために僕の言語を使用している。少なくとも、僕が真だと信頼できる文の集合は、僕にみることのできる世界の側面がどういうものかということを依存している。

同様に、僕が誰かの言語を理解するためには、被解釈者も微妙な視点の違いを持ちながら、僕がみている世界の側面とほぼ同じ側面をみていることを想定しなければならない。そのうえ、その微妙な違いさえもある程度は自然に割り出すことができる(被解釈者が岩の上に立っているとか、彼は僕の背後の風景を見ることができるとか)。

そのため、みられている世界は、その見られている側面において、パトナムの言い方をすれば「意図された」モデルを持っており、そのモデル以外のあまりに奇妙なバリエーションを想定する必要もなければ、可能でもない。そして、「意図された」モデルは十分に特徴的な構造を持っているのではないか。そのモデルは通時的な変化も包含していることを考えれば(さっきはウサギがいたが、今はいない)、この想定は成り立つように思う。

そのため翻訳や解釈というものが可能だ、というところまではデイヴィドソンの論じていることではないかと思う。


さらに進んで、これはデイヴィドソンの論じていることと食い違うようにも思うのだが、単純にモデル化してみる。

僕の信念が世界に非言語的に対応していることは保証される。僕の信念が僕が真だと認める文に対応していることは保証される。非解釈者の信念が世界に対応していることは、「寛容の原理」から要請される。彼の信念が彼が真だと認める文に対応していることは、「寛容の原理」から要請される。僕が真だと認める文と彼が真だと認める文が対応していることは、全体論的な見地から、解釈的に検証される。

もはや、指示という概念は必要がないように思う。少なくとも、指示の魔術性はほとんど胡散霧消していまっているように思う。

もっとも、上のあまりにも単純なモデルでは、まだ信念という特殊な存在者を必要としていて、それがどのように世界に対する(指示ではないにせよ)志向性を持っているのか、という問題が残っている。しかし、それは別の言い方をすれば、僕たちが世界を把握しているというのはどういうことか、ということではないのか。

その答えの一つは、こうだろう。僕たちが世界を把握するのは、伝統的認識論的な考え方と対比すれば「直接的」に。そして、そうではないという想定は、意味をなさない。