行為無価値論と偶然防衛・偶然避難

偶然防衛・偶然避難において、無罪の結論をとることは行為無価値論においても可能なのではないかと思う。


というのは、法規範というものは、個々の具体的状況において、規範を基礎付ける事実の評価として、現れるものだと考えるからだ。

例えば、次のような状況を考えてみる。ある人が展覧会場である発明した機械を展示していた。そして、観客に対してその動作を発表するために機械の起動スイッチを押した。機械に近づきすぎていた子どもが、機械の動作に巻き込まれて重大な傷害を負った(ただし停止スイッチを押す猶予はあった)。

このとき、「子どもを認識していなかった」場合と、「子どもを認識したが、とっさに停止スイッチを押すことができなかった」場合の両方が過失犯として認定される可能性があるが、それぞれの場合では、問題となっている規範は異なるように思う。前者においては、「危険な機械を操作する」と状況の下での「周囲に人がいないか注意せよ」という規範があり、行為者はその規範に反した。後者においては、「危険な機械の近くに人がいる」という状況の下での「停止スイッチを押せ」という規範に反した。


そうすると、結果として偶然防衛・偶然避難となるような状況下において、そもそも規範を基礎付ける事実は存在しない、ということができるのではないだろうか?

たしかに、上の例のように一定の認識の有無は、規範を基礎付ける事実に加えられ、したがって問題となる規範が変化する。しかし、行為者がある事実を認識していようといまいと、偶然防衛・偶然避難となる状況は、法が保護する結果はその行為から生じ得ない状況なのだから、そもそも規範の基礎となる事実が存在しないのではないだろうか。


偶然防衛・偶然避難の場合にも、抽象化された「人を殺すな」という規範に行為者の認識としては反していたかもしれない。しかし、その具体的な状況において、「彼を殺すな」という具体的な規範を基礎付ける事実は存在しなかった、ということができるのではないかと思う。


もっとも、この議論は、不能犯論において、客体の不能の場合を一律に不能犯としなければ、整合しないだろう*1。そして、どうも、客体の不能の場合に一律に不能犯とする(未遂犯としない)ことには、個人的には抵抗を感じる。

*1:ここまで書いてきて、はじめて、客体の不能の議論と偶然防衛・偶然避難が結びついていることに気がついた… と思って調べたら、井田良『刑法総論の理論構造』にそういうことが書いてあった。