遵法責務

遵法責務については、かなり不勉強なので、適当に思いついたことを書く。

遵法責務とは、道徳的義務の一つだといわれる。そこでいう「道徳的義務」というのは、いったいどういうことだろうか? 道徳慣習上の義務のことなのだろうか? しかし、そもそも人は道徳慣習に従うべき義務があるのか?

僕たちは、一定の社会的事実として道徳慣習があることは否定できない。しかし、他方でカントが求めていたような、慣習とは独立した「客観的な」道徳的義務の有無・内容への問いというものが理解できる。そのため、「道徳慣習に従うべき個人的な道徳的義務があるのか?」という疑問を、(最終的にはナンセンスな問いだと結論するにせよ、いちおうは)理解することができる。

そうすると、遵法責務という道徳的義務を証明したとしても、それが道徳慣習上の義務を証明したに過ぎないのならば、結局「しかし、遵法責務という道徳慣習上の義務に従う個人的な道徳的義務があるのか?」という問題が残る。


このように考えれば、遵法責務を道徳的義務として証明する場合、次の四つのパターンが有り得るだろう。

  1. 遵法責務は道徳慣習上の義務である。そして、人は道徳慣習上の義務に従う個人的な道徳的義務があるため、遵法責務は個人的な道徳的義務である。
  2. 遵法責務は道徳慣習上の義務である。しかし、人は道徳慣習上の義務に従う個人的な道徳的義務はないため、遵法責務は個人的な道徳的義務ではない。
  3. 遵法責務は道徳慣習上の義務である。それ以上、人に道徳慣習上の義務に従う個人的な道徳的義務があるかどうかは、問題にならない。
  4. 遵法責務は、端的に、個人的な道徳的義務である。


ドゥウォーキンは3.の立場をとっているように思える。そもそも、彼は、道徳慣習について以外に「道徳」について語ることはできない、少なくとも客観的に議論することはできない、という立場をとっていそうだ。しかし、そうすると、圧倒的な人種差別が厳然と確立され、それが道徳的に正しいと受け入れられている社会においては、人種差別は道徳的に正しいことになってしまう。そして、その社会では、人種差別が道徳的に正しいのだから、法的にも正しいのではないか?

ここでドゥウォーキンは、共同体の擬人化の議論を使って、人種差別が道徳的に正しいことはありえない、と主張することができる(そして、たぶんそうしている)。しかし、そうすると「道徳」の構成的解釈の話はどこにいってしまうのだろう。どの道徳慣習からも独立して客観的に正しい道徳法則が、やはり存在するのだろうか? そして、それについて客観的に議論することができるのだろうか? それとも、いうなれば「道徳の構成的解釈の法則」とでもいうべきものが、慣習とは独立してあることになるのだろうか?


このように考えていくと、逆に道徳慣習を持ち出すのは迂遠なことではないだろうか。直接、4.を結論して何がいけないのだろう。どの道徳慣習を前提としても、同じ結論が導かれるのならば。

これは、遵法責務の議論一般にいえることだと思う。もし、1.か3.の立場をとるのなら遵法責務の議論は空疎なように思えるし、どの社会の道徳慣習を前提としても2.の立場をとるのなら、端的に4.の立場をとることができるのではないだろうか。


また、4.のように個人的な道徳的義務というものを肯定するならば、遵法責務というものが一切正当化されないような判決であっても(完全に法文と判例に反しており、法的構成がめちゃくちゃであるとか)、その内容が道徳的に正当化されるなら、それは遵法責務が正当化されるのと同じように服従すべき理由があってよいといってはいけないのだろうか。

ひいては、4.の立場をとるのなら、遵法責務は結局、判決ごとに毎回正当化に持ち出される道徳的判断と、同列に扱われるべきものに思える。


これは、遵法責務の分析が不毛だという主張ではない。それが判決だからという理由があってはじめて正当化される道徳的理由があってもよいし、ほとんどの判決が有する服従すべき道徳的理由があってもよい。それは、正しく「遵法責務」と呼べると思う。