数学的プラトニズム

ドーキンス『神は妄想である』を読んでいて、数学的プラトニズムの問題が、少し自分のなかで整理できた。なぜ、量子力学相対性理論のような高度な物理学は、非ユークリッド幾何学のような高度な数学で表現できるのか

ニュートン力学ユークリッド幾何学で表現できることは、進化の観点から説明できる。ニュートン力学が対象としているようなサイズの自然の表現としてユークリッド幾何学が相応しいのなら(少なくとも相応しいものの一つなら)、そのようなサイズの世界にうまく対処できるように僕たちの脳は進化したのだから、僕たちの脳がユークリッド幾何学を生得的に理解でき、それがニュートン力学を表現できることに不思議はない。

つまり、ニュートン力学が対象とするサイズの世界を描写するためのユニット*1として、ユークリッド幾何学ユニットが、生得的に脳に組み込まれていることはありえるだろう。


でも、量子力学相対性理論で使っている数学については、その数学を理解するため専用のユニットが、僕たちの脳に生得的だと考えるのは難しい。しかし、高度な数学を理解するためにどのような脳の機構を使っているのであれ、それがたまたま物理現象の表現に利用できるというのは、少なくともニュートン力学ユークリッド幾何学で表現できるということと同じ説明をすることができない。どのような脳のユニットであれ、少なくとも量子力学相対性理論が対象とするようなサイズの物理現象を理解するために獲得されたユニットであるはずはないのだから。


ここで、冒頭の問いをつぎのように変形・分解することができる。

  1. ヒルベルト空間や非ユークリッド幾何学の数学は、脳のどのようなユニットで処理されているのか
  2. そのユニットはどのように進化上獲得されたのか
  3. そのユニットが物理現象の理解のために利用できるのは何故か


量子力学については良く分からないが、一般相対性理論特殊相対性理論については、次のように言えるかもしれない。

そこで使っている脳のユニットは、じつはユークリッド幾何学ユニットそのものである。ただし、僕たちはそれを利用するために一部の入力を取替え、ユニットの機能の一部を制限し、それを再帰的に適用して、記号操作を行う機構でそれを補って、どうにか流用して乗り切っている。

あるいは、逆に、記号操作ユニットを中心的に利用しており、ユークリッド幾何学ユニットでそれを補っているとしても良い。

これで、上の1.と2.は一応説明できるかもしれない。しかし、これらの説明では、いずれにせよ、やはり3.は説明できていないのではないか?


1.と3.をうまく説明できないとなると、次のように言いたくなる。例えば、数学的法則というものが存在し、それは物理現象を根本的に制約し、そして数学的法則を扱うための汎用ユニットが生得的に存在する。しかし、今度は2.の説明に苦しむことになる。

結局、いきつくところは数学的プラトニズムなのだろうか? だが、本来的な意味での数学的プラトニズムは、非物理的な存在者を認知する人間の神秘的能力を要請するがために、物理領域の因果的閉包性に抵触することになり、受け入れられない。それは、まさに説明しようとしていた量子力学相対性理論そのものを否定することになる。

しかし、1.〜3.を納得いくように説明する、本来の数学的プラトニズムでない穏健な数学実在論というのも、想像できない。


もっと単純に、運がよかったのだ、という理解もありえるが、それは説明ではない。


なんとなく、3.の問いが曖昧で、この問い自体に問題があるように感じる。

たしかに、そのユニットを物理現象を理解するために流用しているのではなくて、数有り得る物理現象の表現の中から、そのユニットが適用できるものを物理現象の基礎的な表現として、僕たちが自分の脳の都合にあわせて選択したのだ、と考えることによって、この問いをある程度、無力化することもできる。

しかし、このような相対主義的な物言いは、まるで人間が物理現象を理解するやり方は恣意的なのだということで問題を無力化しているが、たしかにある程度は恣意的な選択なのだとしても、完全に恣意的だとは思えず、その程度としては問題は残るように思う。つまり、ミクロの物理現象の十全な描写を得る方法が潜在的には無限にあり、たまたま人間の生得的な能力がその一つに合致しているのだとしても、どのような能力であっても合致するとはいえない以上、やはりなぜそのような能力の一つを所有しているのか、ということが問題になるように思う。

*1:ユニットまたは機能。僕は、ユニットというよりも、機能というほうが好きだけど、ここはドーキンスに従う。