刑法体系

昨日書いたように、僕自身は、行為無価値論の支持者だ。ただ、行為無価値論だろうと、法益保護の保護を刑法の目的とし、法益の選択・重みづけにおいてリベラルな価値を尊重し、また「社会的相当性」の一言で「ナタで牛を切るような」議論だけで終わりとせずにその内容をさらに詳しく分析することに勤めるならば、体系の構造は異なっても、個々の事案の結論は結果無価値論と大差ないものになる。

例えば、ヤクザの指つめ事例のような本人の同意があるのにその同意が「社会的相当性を欠くから違法性が阻却されない」といった議論は、行為無価値論に立っても拒否することはできる。法益の要保護性が否定されるところでは行為無価値も否定されるという議論ができるし、指を欠損させる傷害については、完全に本人の同意の支配下にあると考えることが、可能ではあるからだ(可能であるだけで、結論としてそうとるかは別の話だけど)。


そのため、行為無価値論と結果無価値の対立よりも、刑法体系内の横のつながりといったもののほうが興味深いように思えてきた。

例えば、不能犯論の客体の不能を一律に不能犯にするならば、行為無価値論だろうと、偶然防衛・偶然避難について無罪の結論を得ることができるだろう。行為無価値論からも、およそ不法な結果の発生する余地のない行為として、行為無価値を否定することができるだろうから。

逆に、純客観的には客体の不能となる事例について未遂犯の成立の余地を認めるならば、結果無価値論であっても、偶然防衛・偶然避難について未遂の結論を得ることができるだろう。不法な結果の発生する「危険があった」と言いうるから。


もっとも、行為無価値論には、偶然防衛・偶然避難について無罪の結論を拒否し、同時に客体の不能の場合に比較的広く未遂犯を認めるような引力がある。

逆に、結果無価値論には、偶然防衛・偶然避難について無罪の結論を支持し、同時に客体の不能の場合にかなり広く不能犯とするような引力がある。

ただ、どちらにせよ、その引力は、偶然防衛・偶然避難の議論と客体の不能の議論を一体としてどちらかにひっぱっているのであって、それぞれに食い違うような引力を及ぼすことができないだろう。