行為無価値論と結果無価値論

僕は、結果無価値論の体系にしたがっても、未遂論において行為者の心理内容を検討しなければ「危険」を認定できないだろう、過失の認定において現実には行為無価値論の相当因果関係の折衷説と同じものを評価しているのだろうと思うが、結果無価値論の言い回しではこれらの点が曖昧にされているように思う。

また、刑法の解釈は、結局は僕たちの道徳的直観や道徳慣習*1に適うものであるべきだ、と考える。僕はリーガルモラリズムに反対するし、その意味では、法と道徳の分離を支持する。法は「どのように生きるか」という個人道徳や格率を市民に画一的に強制するべきではない。しかし、それでも「どのように社会を構築するか」ということも、やはり道徳的な問題だし、その中にはどのような生き方を許容するかというのも、考えざるをえない。共産主義社会を構築するのか、快楽殺人者の生き方を許容するのか、貧しい人が飢えをしのぐために盗むことを許容するのか、ということは道徳的な問題、少なくとも道徳的な側面を含む。

刑法の解釈が、結局は僕たちの道徳的直観や道徳慣習と著しく乖離するならば、そもそも刑法を「法」として従うことはできないだろう。著しく不道徳な(と評価せざるを得ない)「法」に従う理由はないように思う。逆に、著しく不道徳な刑法解釈は、そもそも憲法の権威、ひいては国会の権能を否定する正当な根拠となるだろう。

結果無価値の体系においても、どのような利益を法益と認めるのか、どの法益を他のどの法益と比較してどのように重み付けするのかは、僕たちの道徳的直観や道徳慣習を基準の少なくとも一つにせざるをえないし、またそうするべきだと思う。

そういうわけで、僕は行為無価値論の規範性に率直に注目した分析、規範的な言い回しを好む。そうしたほうが、結局は、無理のない体系を構築できるように思うからだ。


とはいえ、法益法益侵害に注目して刑法解釈を行うこと自体は、とても大事なことだろう。もっとも、それは僕たちの道徳的直観またはリベラルな道徳が、帰結に注目することを要求するからだろう。もし、帰結主義が道徳的に認められないならば、法益法益侵害に注目して刑法解釈を行うことは正当化できないのではないだろうか。

*1:道徳慣習の「構成的解釈」を含む。