ヨーロッパの伝統

たぶん、どこかで書いたことだが、西洋哲学のある伝統、言語と理性を根拠に人間と動物の圧倒的な非連続性を強調するという伝統だけは、僕には不思議なものに見える。もし犬がしゃべられるとすればこう言うだろう、という想像を行うことは、その前件が事実に反するということ以外は、なんらの哲学的な問題もないように思う。


これは、道徳的かつ政治哲学的な問題に直結する。ヨーロッパの伝統的な政治哲学は、人間と動物の隔絶を前提とし、人間の理性という特徴をもって、人間の尊厳を擁護する。

動物と人間の連続性を重視する文化にいる僕には、このロジックはじつに技巧的な仮設された前提に過ぎないように思える。そうすると、動物を殺すことと人間の殺すことにも連続性があることになる。ひいては、動物を殺して食べることと人間を殺して食べることにも連続性があることになり、前者が許され、後者が厳しい禁忌であることを説明することが困難になる。

しかし、ヨーロッパの伝統的なロジックでは、逆に、重度の障害者や認知症の人を人間の尊厳を尊重して遇するべきという要請を正当化することに苦しむことになる。カントとドイツ基本法にはじつに申し訳ないが、「人間の尊厳」などという曖昧な概念でもって僕らの道徳慣習を正当化することは、とっくに破綻しているのではないかと思う。