クオリア

日本の俗流クオリア論を撃破する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

僕もいろいろと誤解していた点を明快に説明してくれている。僕なりに、すごく乱暴に一言で同じようなことをいうとすれば、逆転クオリアの思考実験は機能主義に反駁するためにある

次のような人がいる。


その人の視覚は普通の人とは異なっていて、普通の人がと感じる色をと感じ、と感じる色をと感じ、と感じる色を緑色と感じ、黄色と感じる色をと感じ、と感じる色をオレンジと感じ… 要は、写真のポジネガ反転をかけたように色を感じている。


しかし、その人は、自分が黒と感じている色を人々が「白」と呼ぶことを知っているので、それがその色の正しい名前だと考えていて、自分が黒と感じている色を自ら「白」と呼ぶ。また、自分が白だと感じている色を「黒」と呼び、緑色だと感じている色を「赤」と呼び… 以下同様。


その人をどのように観察しても、普通の視覚を持っている人と区別することができない。その人は、写真のポジネガ反転をかけたように色を感じているのだが、それを明らかにする証拠は一切ない。


このような人はありえるだろうか


このような人(逆転クオリア人)は想像可能であり、このような思考実験は思考可能であるように思える。現代英米哲学では、思考可能性を形而上学的な存在可能性に結びつけがちなので、それを結びつけると、逆転クオリア人は存在可能だということになる。

そして、普通の人と逆転クオリア人の違いは、機能主義からは現れない違いであり、しかしそれは認識という心理現象における違いであるので、機能主義は心理現象の説明として不適格だという結論になる。


英米哲学の現代的な心の哲学は、行動主義から始まるといってもいいかもしれない。行動主義は、もともと方法論的行動主義として始まり、これは存在論的な主張ではなく、たんに心理学研究の研究方針を提示するものだった。「科学としての心理学は、人間の行動について研究しよう。観察したり、実験したりして得られるデータは、心そのものではなく、行動なのだから」。

哲学は、この行動主義に存在論的な意義を読み取り、論理的行動主義を提示した。これは、たんに研究方針を提示する規範的な主張ではなく、存在論的な主張だった。「行動(の傾向性)のほかには、心そのものは存在しない」。


論理的行動主義への批判として生まれてきた機能主義は、やはり存在論的な主張だと考えなければ、上記の逆転クオリアの思考実験による反駁は理解しにくい。

つまり、機能主義が「心について研究するときは、心を機能的に考えよう」と主張しているならば、逆転クオリアの思考実験が、心の機能的側面ではなく「心そのもの」について、機能主義ができる限界を超えて何事を語っているのだとしても、機能主義にとって大して問題はない。

そうではなくて、機能主義が「心(心理的現象)とは機能である。それ以外に心そのものなど存在しない」と機能主義が主張していると解釈するからこそ、逆転クオリアの思考実験の反駁にさらされる。