2007-10-29から1日間の記事一覧

合理性

たぶん、僕は知識の因果説、認識的正当化の外在説を支持していることになると思う。しかし、知識の得るための因果関係のあるタイプや、(ソウザの徳認識論のような)知識を得る能力や性質が知識の正当性そのものであるとか、あまつさえ人間の合理性の本性であ…

ヨーロッパの伝統

たぶん、どこかで書いたことだが、西洋哲学のある伝統、言語と理性を根拠に人間と動物の圧倒的な非連続性を強調するという伝統だけは、僕には不思議なものに見える。もし犬がしゃべられるとすればこう言うだろう、という想像を行うことは、その前件が事実に…

デイヴィドソン:信念と合理性(2)

仮に、僕にある人が「私は、食パンが太陽の左前方を素因数分解している、と信じている」と言ったとしよう。僕は、この言明を理解することができない。「食パンが太陽の左前方を素因数分解している」とはどういうことなのか、さっぱり分からない。従って、彼…

合理性

人々の意見が異なっている場合でも、僕たちお互いに、相手がそれなりに合理的だと想定することができる。そして、意見が異なることを説明するのに、合理性のあり方が人によって違うと考える必要はない。そうではなくて、たんに知っている事実や注目している…

デイヴィドソン:信念と合理性(1)

デイヴィドソンは、言語コミュニケーションができない対象に信念を帰属させることはできないという。僕には、これは極端すぎる主張のように思える。ただ、こういうことは許されるだろうと思う。ある対象が言葉をしゃべることが想像できないような場合、その…

僕はなぜこの僕なのか?

これを告白するのはものすごく羞恥心を感じてしまうのだが、「僕はなぜこの僕なのか?」という誰もが思いつくような問い、いかにも思春期的な問いが、僕の哲学への関心をずっと引っ張ってきた。そして、この問いにやっと答えが出たような気がするので、その…

キリスト教

最初期のキリスト教徒*1が、「賢さ」を道徳的性質の一つに数え上げなかったことは、当然かもしれない。ニーチェの議論も興味深いが、たぶんそれとは違った意味で、彼らが知的卓越性を道徳的性質に数え挙げなかったことには、彼らなりの理由があるように思う…

道徳的性質

そこで、マッキーにとって重要な問いとは、言語哲学的な問いではなく存在論的な問い、すなわち「実在的で客観的な道徳的性質は存在するか」という問いであり、それに対する彼の答えは「存在しない」である。この結論に至る彼の中心的な論証は、彼が「奇妙さ…