デイヴィドソン:信念と合理性(1)

デイヴィドソンは、言語コミュニケーションができない対象に信念を帰属させることはできないという。僕には、これは極端すぎる主張のように思える。ただ、こういうことは許されるだろうと思う。ある対象が言葉をしゃべることが想像できないような場合、その対象に合理性があると想像することもできない


ポイントは二つある。

一つ目。デイヴィドソンは、(パトナムと同様に)信念の全体論から、信念とは合理的なネットワークをバックグラウンドにしていないと特定できない、と考えているのだと思う。合理的な存在者だけが、個別化・特定された信念を持つ。

合理性を持たないものは、信念を持たない。信念を持たないものは、合理性をもたない。これはこれで正しいと、僕は思う。

しかし、犬や宇宙人やコンピュータといった境界事例を扱う場合には、合理性を備えていることと、信念を持つことを一応別の問題だと分けたほうが便宜だろう。

なぜなら、第一に、たぶん、こういった境界事例に対して、それは信念を持たないだろうという判断より、それは合理性を持たないだろうという判断のほうが先行するだろうから。第二に、合理性を持たないことから、信念を持たないことを帰結するのは、それなりに新規な、なじみのない哲学理論だから(それを支持するにせよ)。

二足歩行するアリのような姿をした、アリのような社会性を持った宇宙人が宇宙船で地球にやってきた場合を想像すると良い。僕たちが、彼らの個々の個体は固有の信念を持たないと結論する場合には、たぶん次のように推論していくだろう。彼らの個々の個体は自由意志を持たない、よって人格を持たない、従って合理性を持たない、ゆえに信念の全体論が要請するところにより、彼らはの個々の個体は信念を持たない。そして、その推論、この思考実験のなかで、僕たちは合理性と信念の所有がそこまで固く結びついているものかどうか、反省を求められるだろう。


二つ目。ある対象が信念を持つかどうかということについては、デイヴィドソンがいうように、その対象が言語能力を備えているかどうかと軌を一にするとしても、その判断を下すためには、その対象が言語能力・合理性・信念を備えているという仮説を先行させなければならない。

その対象が言語能力・合理性・信念を備えているという仮説から出発してそれを棄却することはできるが、逆はできない(少なくともデイヴィドソンの根源的解釈の枠組み内では)。

だから、犬がしゃべられるという想像のもとでは、犬も合理性を持つし、信念を持つ。その想像は荒唐無稽なものだと棄却されるかもしれないが、しかし、人間に対してさえ、言語コミュニケーションの第一歩はそういった想像から出発する。