デイヴィドソン:信念と合理性(2)

仮に、僕にある人が「私は、食パンが太陽の左前方を素因数分解している、と信じている」と言ったとしよう。僕は、この言明を理解することができない。「食パンが太陽の左前方を素因数分解している」とはどういうことなのか、さっぱり分からない。従って、彼が何を信じているのか、全く把握することができない。端的にいって、あまりに非合理な信念というものを認めることができない

また、仮に、僕にある人が「私は、6を素因数分解すると2と3になる、と信じている」と言ったとしよう。そして、その人がこう続けるとする、「6は古代中国の君主の一人だ」「2とは月の裏側にあるモニュメントだ」「3は細胞壁での分子反応の総称だ」「素因数分解とはコンパイル技法の一種だ」と。やはり、僕はその人が言っている「6を素因数分解すると2と3になる」とはどういうことなのか、理解できないだろう。一見、合理的な信念に見えたものでも、その背景となるバックグラウンドがあまりに非合理だと、それも非合理なものになってしまう。ある信念が合理的であるためには、そのバックグラウンドも合理的でなくてはならない。つまり、信念の合理性は全体論的に判定されなければならない。


言語コミュニケーションは、この信念の合理性の全体論的な判定において、非常に重要な役割を果たす。例えば、先ほどの例だが「6を素因数分解すると2と3になる。6は古代中国の君主の一人だ。2とは月の裏側にあるモニュメントだ。3は細胞壁での分子反応の総称だ。素因数分解とはコンパイル技法の一種だ。」という一連の文章が書かれた紙を見たとしたら、僕たちは、それが何を意味しているのか分からないし、たぶん合理的な人間が書いたのではなくて、粗雑な人工知能がランダムに語を文法どおりに繋げた出力か何かだと考えるのではないだろうか。

ここで重要なのは、ある信念が合理的だという判定が、そのバックグラウンドが明らかになるについてキャンセルされる、ということだ。「6を素因数分解すると2と3になる」とだけ主張する人は、ひとまず合理的な信念を持っていると認めることができる。しかし、その人が「6は古代中国の君主の一人だ。…」と続けることによって、初めの判定はキャンセルされる。

逆に、ある対象が非合理的だという判定もキャンセルされえる。「食パンが太陽の左前方を素因数分解している」といった人が、急いで「『食パン』というのは僕の友人のあだ名で、『太陽』というのは1000を意味する僕たちの隠語なんだ。で、『左前方』という言い方は、『後者』の逆、つまりマイナス1した数を意味している。僕の仲間たちは、ヒルベルトのアイデアを拝借して、こういうゲームをやってみることにしたんだ。やってみると、こういう隠語を使ってやり取りするっていうのはなかなか楽しくって、ゲームに参加していない人に対してもつい言っちゃことがある。ほら、分かるだろ、そういうの?」と言ったとしたら、どうだろう。失礼な奴だとか、愉快な人だとかという評価はありえるが、少なくとも知能の面では、彼は文句なく合理的であると判定せざるをえないだろう。(個人的には、じつに真面目な人だとさえ思う。その真面目さが、おかしな方向に行ってはいるが。)


デイヴィドソンは、この事後的にキャンセルされるという合理性の判定のあり方のダイナミックさを、不当に等閑視しているように思える。

犬の例で言えば、ある犬が猫を追いかけていた、猫は桜の木に登る。追いかけていた犬は、桜の木の上に向かってほえる。猫は、犬に見えないように隣のイチョウ並木に飛び移り、並木を伝って移動して、その後地上に降りて、遠くに逃げてしまった。しかし、犬は、桜の木の上に向かってほえ続ける。

このとき、僕たちは犬が「桜の木の上に猫がいる」という信念を持っていると言いたい。デイヴィドソンは否定するが、なぜそう言ってはいけないのか。

たしかに、僕たちは犬と言語コミュニケーションととることができないから、犬の合理性について、厳しい判定を行うことができない。しかし、厳しい判定を行うことができないということは、犬が「桜の木の上に猫がいる」という信念を合理的に持っていることについて、十分に確証する手段も、反証する手段も持っていないということではあるけども、そのような信念を帰属させてはいけない、という理由にはならないと思う。

僕たち自身が持っているそれなりに合理的な信念体系から言えば、犬がそういう信念を持っていると想定するのが自然だし、犬がそれに良く似た信念体系を持っていることは犬の生存に役立つことだろうし、そのような信念体系を持っていること反証する手段もないのだから。


僕は、デイヴィドソンの根源的解釈のモデルは非常に示唆的だと思うが、デイヴィドソン自身がそのダイナミックさを取りこぼしているように思う。根源的解釈の場面で、「彼は合理的だ」「彼は合理的でない」という判定がなされうるが、それはいつでもキャンセルされえるし、ひとまず「判定保留」という結論に至っても不思議ではない。ある具体的対象が合理的だとか、信念を帰属される資格があるとかいったことについて、最終的で断定的な答えはなくてもよいではないか。

犬についても、せいぜい「判定保留」で良いのではないだろうか。


もっとも、これは合理性や信念の所有についての判定プロセスにおいて、程度問題のどこに線を引くかという用語法上の問題なのかもしれない。というか、たぶんそうだろうと思う。それなら、デイヴィドソンが犬に信念を帰属させることを拒否することも理解できる。それは、彼はそういう用語法を使っているということに過ぎないが。

大事なことは、僕たちは前記のようなプロセスを使って、対象の合理性や信念を帰属される資格について、程度的に判定をしている、そして判定を継続し続けることができる、ということであって、程度問題のどこに線を引くのかということではないと思う*1

*1:ただし、道徳的な問題、とくに政治道徳的な問題が関係すると、そうは言えず、とにかくどこかで線を引くことを求められるが。