デイヴィドソンの「三角測量」

デイヴィドソンの「三角測量」の議論は、かなり乱暴に要約すれば、「真」を定義するのは客観世界だが、客観世界を定義するのは他者だ、というものだろう。

これは、真理とは合意である、という説とどこが違うのだろうか? たぶん、違うだろう。合意についての、合理性の制約の掛かかりかたが、違うように思う。

「三角測量」においては、思考の内在的な合理性よりも、認知の外在的な合理性が必要とされ、また寛容の原理によって他者にも想定される。

むろん、形而上学的に、または認識論的に、思考の内在的な合理性認知の外在的な合理性が区別されるのか、という問題はある。しかし、少なくとも実践的なガイドラインとしては違うだろうし、そこが違うのなら、やはり哲学的に違うのだと考えても良いように思える。