道徳的性質

そこで、マッキーにとって重要な問いとは、言語哲学的な問いではなく存在論的な問い、すなわち「実在的で客観的な道徳的性質は存在するか」という問いであり、それに対する彼の答えは「存在しない」である。この結論に至る彼の中心的な論証は、彼が「奇妙さに基づく論証」(argument of queerness)と呼ぶものである。客観的な価値が存在するとすれば、それは「世界の他のものとはまったく異なった、非常に不思議な種類の実体、性質、ないし関係」でなければならないだろう。それは、実在的で客観的な存在と、ある特殊な種類の磁力、つまり、ある種の仕方で行為するように我々を動機付ける力とを結びつける、「客観的な指示性」(objective prescriptivity)という逆説的な特性をもたなければならないだろう。


リチャード・ノイマン『道徳の哲学者たち』352項


僕はそういった性質が、それほど奇妙なものだとは思わない(マッキーの論文を直接読んでいないので、何か勘違いしているかもしれないが)。

例えば、極めて強い光を照射するスポットライトを照明からみれば、誰だって、光を遮り、目を保護するように動機付けられるのではないか。そして、そのスポットライトが客観的な実在でないとか、強い光を照射することが客観的な性質ではないとか、そういったことは言えないだろう。

また、肌に塗られたら肌を掻きたくなる薬物もある。この薬物の性質は、客観的ではないのか。


道徳的性質の奇妙さは、もっとその性質を限定しなければ現れないように思う。マッキーが問題視するような道徳的性質の奇妙さとは、(1)人間や人間の行為や、せいぜい社会のあり方が持つ性質であって、(2)人々が合理性に判断して、自由意志に基づいてそれを実現するように動機付けられる、という二点にあるのではないだろうか。たしかに、これは奇妙だ。

とくに(2)が問題だ。一方で、人はそれに動機付けられなければならない。他方で、自由意志で従わなければならない。これは一見して奇妙だ。スポットライトの光を遮るとき、薬物を塗られた肌をかくとき、人はそこに完全に自由意志に従っているとはいえない、強制されているという感じを抱くだろう。そういう感じを抱かせずに、また周囲から見て常識的に考えて自由意志を制約していないといえるような、そういう確実な(100%確実ではなくても良いが、かなり確実な)動機付けなどありえるだろうか。これは一見矛盾しているように思える。


この点は、カントの議論、自由と自律、そして理性的存在者が選択せざるを得ない格率といった議論が、いくらか擁護を与えるように思える。僕は、カントの形而上学を支持しないが、それでも合理的な人格であることと、自由な人格であることは、いくらかの、たぶん重大な結びつきがあるように思える。一切の合理的判断ができないような存在者は人格とは呼べないし、そのため自由意志もない。したがって、合理的な判断によればそう動機付けられざるをえないとすれば、非合理にそれを拒絶するのではなく、その合理的判断に従った人は、まさに自由なのかもしれない。


もうひとつ、この奇妙な性質が有りえることのために、曖昧な擁護論を展開してみよう。

例えば、ある中央アジアの国では「アルカポー」という性格が、誠実さや寛容さとともに、とても道徳的に重要だと考えられているとしよう。僕は、会社の命令で三年間その国に赴任しなければならなくなり、「『アルカポー』とは、だいたい用心深さの意味である。この国に旅する人は、『アルカポー』に振舞うように注意しましょう」とガイドブックに書かれているのを読んで、同僚や上司、部下、取引先に対して用心深く振舞うようにする。しかし、そうしようとしても尊敬をえるどころか、いたるところで苦笑をかい、僕は不思議に思う。

そして、日本語がしゃべれる同僚に「僕は『アルカポー』に振舞っているつもりなんだけど」と相談すると、「あー。うん、まー、説明するのは難しいだけど、君がやっているのは『アルカポー』じゃなくてね…」と説明される。そういわれて、また人々の反応を見ながら、僕は少しずつ自分の行動を修正し、次第に道徳的な評価を得ることに成功するようになり、ついには「アルカポー」に行動することができるようになる。

そしてまた、新しい同僚が日本からきたら、その人が奇妙に用心深く振舞っているのをみて苦笑するようになる。

これは、まったく想像上のものだが、僕の言いたいことは伝わったかと思う。こういったことは、別に想像上の外国を想定するまでもない。かつての日本では「もののあわれに感じるこころ」や「直き心」が非常に重視され、それを持つことが尊敬され、欠くことが軽蔑され、それを表現することが賞賛されたようだが、僕はその「もののあわれに感じるこころ」や「直き心」がどういったものなのか、良く分からない。たぶん、古典文学をよく勉強すれば、いくらか理解できるようになるだろうが。

このように道徳的性質とは、ある関心のもとで注意深く学ばなければ、それに注意を向けることができないようなものだ。誠実さや寛容さも同じだろう。これは別に奇妙なことではない。ソースコードのシンプルさを理解するのも、陶磁器の時代や地域ごとの様式を識別するのも、一定の関心の下で注意深く学ぶ必要がある。

さて、ここで、先の「アルカポー」という性質は、自分が「アルカポー」に振舞いたいと強く思っていなければ、身につけたり、識別したりすることは不可能だとしたら、どうだろう? かつてアリストテレス孔子も道徳的性質に数え上げた「賢さ」についてはどうだろう? 現在でも、ある程度の人々は道徳的性質に数え上げる「知的誠実さ」はどうだろう? どれも、それを自分が身につけたいと考えなければ、十分に注目して識別することができないものなのではないだろうか。僕自身はどちらとも言い難いが、誠実さや寛容さもそうなのかもしれない。

ここに、それを認識するならば、そう行動しようと動機付けられる、しかも合理的に、自由意志に基づいて動機付けられる道徳的性質があるように思う。なぜならば、それは、ある程度まではすでにそう動機付けられていて、そしてそれをより詳しく認識することによって、より詳しく動機付けられるような人でなければ、決して発見することのできない性質だからだ。