存在論

ハイデガーを読みたくなってきた。たしかハイデガーは、「存在するとはどういうことか?」を問うのが「存在論」だ、といっていたと思う。

現代英米哲学の「存在論」や「存在論的論証」と呼ばれる議論は、どちらかといえば「何が存在するのか?」という議論に関わっていることがある。道徳的性質は存在するのか? 数学的対象・数学的構造それ自体は存在するのか? 命題それ自体は存在するのか? そのような意味での「存在論」からみれば、ハイデガーの議論は「メタ存在論」を目指しているように思う。

もちろん、現代英米哲学の「存在論」も「存在するとはどういうことか?」を問うメタ存在論*1を含んでいるし、ハイデガーの議論も「何が存在するのか?」を問う存在論*2を含んでいるから、両者を分離するのは容易ではないし、完全に分離するのはたぶん無意味なことだ。

ただ、ハイデガーの議論はメタ存在論を目指しているのだと考えれば、見通しが良くなるように思う*3ハイデガーは、人間と道具的存在者という二種類の存在者が存在するということを言いたいわけではなく、実存と道具的存在という二種類の存在が、つまり二種類の「ありかた」、二種類の存在の仕方、二種類の存在様態、二種類の「存在する」という言葉の使われかた、二つの存在論(ハイデガーのいう「存在者の学」の体系)があるのだということを言いたいのだろう。

このメタ存在論は、レヴィナスの議論を含むように拡張できる。ハイデガーの実存と道具的存在の二種類の存在の仕方に、「不在」という存在の仕方を加えて、三種の存在の態様があると考えれば、図式的にすっきりする。ハイデガーも『「ヒューマニズム」について』で、不在*4について述べていた。

また、自己と他者と客観世界は相伴って現れるのだといわんばかりデイヴィドソンの「三角測量」は、三つの存在の態様の議論としてとらえることができるかもしれない。意外と、ハイデガーレヴィナスと近いかも。

*1:ハイデガーの意味での「存在論」。

*2:ハイデガーはそれを「存在者についての学」と呼ぶだろうけど。

*3:「何が存在するのか?」ではなく、「存在するとはどういうことか?」を問うのだということを、ハイデガー自身が強調していたはずだけど、僕はいままでそこに十分に注意がいってなかった。

*4:ドイツ語原文では、そこにはないこと、他のところにある、というニュアンスだったはず。